放浪縄文人の日誌

30歳過ぎて山麓に30年以上暮し、その後1年東京世田谷で暮し、2023年3月末から本州の北の方に行った老人の折々の日誌

第10章 山麓時代⑤ 2015年前後のこと その1 

今(2024年)からまだ10年も経っていないのにもうだいぶ前のことのようだ。
振返れば、一つの人生の中でも結構さまざまな出来事がある。
今は残りわずかな年月を次の人生として過ごさせてもらっている。
この頃から、静かにそして確実に自分の法人事業を通じての活動が終息に向けて動き出した。
 
法人の主な事業は建物清掃、老人施設内の喫茶店、障害児者対象のフットサルクラブ運営だった。それらが一つづつ終わっていった。
 
フットサルクラブは、地元の障害児者の余暇支援を目的として、毎年の障害者施設からの補助金で運営され、財源的には安定していた。たしか2015年度を最後に法人の事業でなくなる。
 
法人設立時からの清掃事業は仕事先を一つまた一つと増やしてきて年間事業高500万円ほどだった。
責任もって現場をまかせられるスタッフがいないので、規模を増やすことは無理で、小規模ながらすでに飽和状態だった。統合失調症などの障害者、そして60代、70代と年齢層の高い人たちでシフトを組んでいた。
その清掃事業は2022年の法人の解散まで続く。
一部は事業譲渡しあとは契約を終了させてもらうことになる。
 
茶店は老人施設内にあり、2005年の新築に合わせ地域の障害者の働く場として提供したいという趣旨であった。地元の作業所に引き受け先が現れず、当法人の役員をしていた方を通じて話が持ち込まれた。2005年にその役員が責任者を引き受けることで、受託した。
開店と共に雇い入れたのは、高卒後一般就労出来ないでいた「軽度の」身体、知的な障害のある女性スタッフだった。責任者が無償で働いてスタッフの賃金を捻出するという無理を前提にしていた。
責任者として奮闘し続けたが、家庭の事情を理由に2年後に離れた。自ら続けるのは限界だったのだろう。自分も支援は出来なかった。
そのあとは自分が買い出しや仕込みなど手伝いながら続けていたが、売上は下がる一方だった。
この段階で撤退することも選択できたが、出来なかった。
場所がありそして人がいることで、あれこれ苦心しながら何とか続けようとしてきたが、結果として関わる人を縛りつけていたようにも思う。場所は他にもさまざまにあるのだ。
 
2016年末、スタッフが辞めることを機に翌年3月末をもって10年続けた契約を打ち切らせてもらった。
 
それぞれの事業を取り巻く制度の中でないと運営が難しい、しかし制度外だからやりたい形を目指せる。そして使える制度があれば使っていく。だがそもそもやりたい形とは何だったのか?
汗を流して、一つ一つ現場を増やすより楽なことを覚えたり、行政から随意契約ももらえるようになってくると、設立当初の必死な気持ちが弱くなっていたこともあった。
そしてなによりも、事業所としての売上から一人一人のスタッフに仕事は提供出来ても、給料は出せないのでは、そもそもやってることに無理を抱えていた。
 
それでも、次の進展を前提に模索していたつもり・・・でいた。
理想ありきで始めるので、現実を見誤ってしまうのだろうか。
現実のなかにいかに理想をつくりだせるか、いや現実の中に理想はそうそうないのだ。
 
さてここまでだいぶ省略しながら、もやもやしたつぶやきが長々となってしまった。
以上のことと並行して進めていた、グループホーム開設のことについて書き残しておかなければならない。
 
制度内の事業として比較的参入しやすいだろうと、検討を始めていった。たぶんそれは2010年頃からだったと思う。
 
作業所は、「働き方」として自分の趣旨から外れすぎる。参入の大変さもある。
「暮し方」に新しいテーマを見つけて、コレクティブハウス、シェアハウスのことを調べていった。
 
茶店の運営の行き詰まりの打開策にもなる。補助金の模索、物件探しなど、自己資金もないのに周りの人を巻き込みながら、「前進」してると思っていた。
 
そして改修すれば使えそうな古家を紆余曲折の末に決め、公庫からの借入金で購入した。が、次が進まない。
そんな時、グループホームの引き継ぎの話があった。
 
「渡りに舟」で前に進んだ。これがこの後現実的な苦しみを多くもたらした。法人設立当初の想いもすっかり失せることになる。
 
その法人がグループホームを継続出来ないのには理由があり、それも「刑事事件」が絡んでいたのだが、その頃事業の前進を最重視する目には正しく捉えられなかったのだろう。
 
なぜ廃止にしないで引き継ぎ先を探そうとしたのか?
法人名を変えて、「衣替え」して事業継続を図っていて、離れた場所にあるこのグループホームは、ただ月7万円の賃貸料収入を途絶えさせないためであったのだろう。
 
4人いた入居者は引き継ぎ後1、2か月で全て去り、収入が入らなくなった。が以前に受けた補助金の縛りですぐには事業を廃止することが出来ない。まずは新たな入居者を探すことに努力した。1年後に廃止が出来ることがわかってからは、すぐ、撤退(廃止)に向けあらゆる手を尽くすことに方針を切り替え、それに傾注した。
今に思えば入居者が一人もいないことが幸いだった。
事業が出来ないようにやりずらいようにと、表に裏に、また小さく陰湿なことが多々あった。
行政の立ち入り検査も受けた。
が、縁を切ることに決め、それがが1年後に可能となってからは、そのために必要な手続き、やれること、負担すべき金額を見極め冷静に行動に移した。「民事調停」の際に提出する証拠となる現場写真も撮った。
年度末で廃止手続きを速やかに完了した。
 
その頃、精神のギリギリの衛生を保つため、中島義道氏の『怒る技術』を座右の書にしていた。
 
問題の賃貸契約の解約は、「民事調停」の結果、賃貸契約書と実際の持ち主が異なることが判明し、あっけなくこちらの要求通り解約が完了した。
商工会等主催の弁護士の無料相談やオンラインでの相談サイトも利用した。
これらは、法律的な手続きの仕方であって、方針をどうするかは、自らはっきりしなければならない。
平和な時代と社会の中でも自分にはちょっとした「戦争」だった。そして得たものは「虚しさ」。
今まで自分の想いを注いできた事から離れようと決めた。
 
その後、購入した古家のグループホームのための改修工事があった。
改修についても色々と業者に手間をかけており、とりあえずグループホーム向けで改修工事を行った。それに、まだ開設に向けての気持ちを全て拭うことが出来なかった。
しかしその気持ちは日を追う毎に失せていった。
公庫への返済が月7,8万円あったので、仕事は「自分のため」に続けなければならなかった。改修なった古家も収入を産み出す手立てを考えなければならず、「シェアハウス」として入居者を募った。
 
その後解散に至るまで、仕事は現状維持、経費節減で続けていった。
物心とも連れ合いに支えてもらった。