放浪縄文人の日誌

30歳過ぎて山麓に30年以上暮し、その後1年東京世田谷で暮し、2023年3月末から本州の北の方に行った老人の折々の日誌

青春18切符の旅 2024.4.4~4.11

4月の東京行きは、青春18切符を使って在来線を乗り継いで往復した。
行きは青森、秋田を経由して新潟泊、帰りは宇都宮、福島、山形経由で秋田泊の行程だった。秋田から奥羽本線弘前、青森と行く予定が途中、五能線に乗ってしまい少し大回りしてしまった。
 
それぞれの場所でビルディングが林立していたり、一面田んぼだったり、木造の建物が点々としていたり、また人の密度や年齢層、格好も様々だ。それぞれに生活しているのだろう。
自分もそのうちの一人だ。
ヒト以外の生き物はあまり見かけなかった。

第5章 国分寺時代

日曜学級でNくんと関わるようになってしばらくした頃だった。

彼のお母さんから、彼が以前通っていた障害児通園施設で男性の職員を探しているという話を聞いた。

そのことが縁になって一度見学に行き、その後6月から働き始めることになる。
 
その後半年くらいして田無から国分寺に引っ越した。
国分寺駅南口から西国分寺駅方面に歩いて10分くらい、鉄道学園の少し先の一軒家の2階の部屋で1階には大家の老夫婦が住んでいた。東京暮らしで初めて専用トイレ付きだった。
職場は、国分寺駅北口から武蔵小金井駅方面に歩いて10分くらい、学芸大学と中央線の線路の中ほどにあった。
その頃はまだ駅ビルはなく、古びた駅舎だった。
 
国分寺は、その頃幾つか著作を読んでいた山尾三省が昔住んでいたところで、少し憧れの地でもあった。仲間と始めたという「ほら貝」という飲み屋も続いていた。その後、店はちょうど職場に行く途中のほかほか弁当店の2階に移った。一人で、友人と、職場の運動会の後の打ち上げでボランティアの人たちとで時々行って飲み食いした。旨い料理と酒があった。
三省やその仲間たちの詩の朗読会もその頃国分寺のお寺で開かれていたようでそのポスターなども店に貼ってあった。一度一人で飲んでいた時、ナナオサカキと同席し、握手してもらった。大きな手だった。
「味通」や「ほんやら洞」、他にも名前は忘れたが幾つかの飲み屋や定食屋、ラーメン屋に通い、一人暮らしの日々を支えてくれた。
都心から少し離れ、個性的な店も多くて、大きな公園もあり、住みやすい
街なのだろう。
 
その頃の自分はまだ将来を自信を持って定めることが出来なかった。何かを知るためには、まずそこに入って体験しなければならない。だから次の段階に進む時は、仕事も住む場所も変わるだろうことは考えるまでもないこととしてあった。
 
通園施設での仕事は、始めの1、2年は慣れるのに大変だった。通ってくる子どもはほぼ「自閉的傾向のある知的障害児」ということになるのだが、その度合いはみんな異なる。それにその子の個性、性格もある。
在園児は20人台前半。3クラスに分けそれぞれ3人の職員が担当する。クラス全体で保育する場面と個人担当の2、3人を個別指導で受持つ場面がある。
各クラスに1人の男性職員が振り分けられた。
自分が入った当初は「障害の」傾向、特性別にクラス編成していたが、毎年、年度始めに再検討していき、そのうち年齢別(年少、年中、年長)に落ち着いた。
 
専門的な知識はない、関わった経験は月1回のボランティアを1年くらい、そしてどこまで自覚していたか分からないが非社交的な特性のある人間が非社交的な特性のある子どもと関わるわけだ。
療育の場のため、一人一人目標を定めて関わるわけだが、なかなか上手くはいかない。
後日申し訳ないと思う対応をたくさんした。
そうした自覚がなくても一つ一つの対応がどうだったのか?ただ、常に真正面から向き合えた。それが出来る相手だった。
 
6月から働き始めたわけだが、その後5年間に渡り、直接担当する子どもは1年だったり2年だったりで、その子らとは一番深い関わりを持つ。そして同じクラスの子、3クラス全員20数人と関わりが生まれる。
合宿などの場面で担当になる子ともまた関わり付き合うことになる。
非社交的な者同士だが、色んな場面が設定された中で関わっていくことはそこに何かを生じさせる。人は本来的な意味で社交的、というか関わりの中にある生き物であること、そして関わりからしか生み出せないものがあることがわかる。
 
どうしても、彼ら彼女らの場合は関わりの中心は意図して関わろうとする大人になる。それも自分のような者というのも申し訳ないことだった。
 
最初に担当したTちゃん、いつも部屋の壁から壁まで何度も往復して走っていた。
90年代、山ろくでの夏キャンプにも参加してくれた。このときは、Uタ—ンする障害物がなかったからか、目を離した隙に道を走り去ってしまい、警察署に保護された。
笑顔でブランコにぶら下がっている5歳のTちゃんの写真が、今、廊下に飾ってある。
 
Yくんは直接の担当ではなかったが、同じクラスにいた<こだわり>の強い子だった。
下駄箱の自分の靴をいれるところに他の靴が入っているだけで大<パニック>になった。一度<パニ>くると、自分の手首を噛んだり、わめいたりがひたすら続く。
そんなYくんのために、清掃用具が入っていたスチ-ルロッカ-の内側に毛布などでカバ-を付け「リセット室」を作った。何度か彼をそこに入れたと思う。
Yくんが小学校に上がった時、一度見学(視察)に行った。いわゆる「普通学級」のクラスに所属して、担任の先生やクラスの子どもたちからさりげなく気にかけてもらっていて、表情も穏やかだった。「Yくんは天使のような子です。」という先生の話を聞いて<パニック>の時の彼を知っている自分はかなり驚いたものだった。帰りのホームルームが終わって30人ほどの児童が一斉に席を離れた。あれ、Yくんどこにいったのかな?と探していると、Yくんが自分の隣にいて手を握っていた・・・。
 
あれから40年。今どうしているのだろうか。
 
4年10か月の通園施設での仕事それと重なり合う国分寺での暮らしは、20代後半から30代初めの色褪せない出来事の数々がある。それはありがたいことだと思う。
日曜学級も続けていたが、次第に月1回より毎日の関わりのほうに夢中になっていき少しずつ遠のいていった。時々奥多摩の低い山に日帰り登山をしたり、母親の集まりに誘われて日帰りや一泊の旅行に出かけたりして余暇時間を過ごしていた。
日曜学級で知り合った区立保育園の保育士さんをしている女性と気が合ったのか、時々飲み食いに出かけていた。だがそれ以上の関係になることはなかった。気安く付き合えることを大事にしてその守備範囲を守ってしまったからだろうか。
自分のこれからの去就がどうなるかにも自信がなかった。
昭和の年号が終わる前年の1988年春、多くのものから離れて、信州の山ろく暮しが始まる。

第9章 山麓時代④ 2005年の頃から。

2002年の法人設立から1つ2つと清掃の現場を受託していった。全くの「飛込み営業」だった。
小さいながらも事業者兼営業主任兼経理、総務主任兼現場作業主任と個人的な得手不得手にかかわらず何でもしなければならない。大変さを感じたが、全くの素人には新鮮な経験だった。
作業所ではなく、いわゆる一般の企業でもない小さな事業所で働くスタッフも「就労支援センタ-」などに相談に行って、紹介してもらった。毎日コンスタントに仕事があるわけでないのでニーズは限られていた。
 
2005年に小諸市内にある老健施設内にある喫茶店の運営業務を受託した。初めは市内の作業所に話がいったらしいが引き受け手がなく、法人の役員をお願いしていた地元の人の繋がりからの話だった。その人が是非始めたいというのが大きな力になった。
 
経営的な見通しでなく、やりたいという想いから機会を得て始まり、なんとか10年続けて後に打ち切ることになる。
 
清掃の仕事、喫茶店、その後始まったフットサルクラブなど、今思えば覚束ない土台の上に複数の事業が行われていたのが2005年からの10年ほど、自分が50代の頃だった。
毎年続けていた夏キャンプはこの年(2005年)を最後に終了した。掛け持ちで続けていたアルバイトも辞めた。事業の方に傾注する必要からだった。
 
この時代はたまたま具合よく続いていた数年であったのかもしれない。
法人に関する紙の資料は大部分処分してしまった。今となれば振り返りたくもないことが溜まっているからだ。
その一方で、こうして記憶を辿って、書き残そうとしている。
厭な性格だ。
 
「僕は自分の越し方をかえりみて、好きだった人のことを言葉すくなに語ろうと思う。」(小山清『落穂拾い』より)
この言葉をいつも傍らに置いて自分の振り返りが出来たらと思った。が、実に難しい。出来ないからこの言葉に惹かれたのだろうか。
ややもすると、嫌いな人を一刀両断(言葉少なに)に、あるいはあれこれと語ったり、好きな自分を言葉多く語りがちだ。だがそうしたことはさすがに虚しさを引きずるだけなのでやめようと思う。
 
「障害者」、「働く」というテーマで、清掃という業種で始めた法人だった。自分もそこで共に働いて収入を得て生活していくことが必要だった。そのことを大事にした。
小さいながらも想い描いた形に近づいていると思った、一瞬のわずかな時期があったかもしれない。それは、現実を自分に都合よく見ることに繋がる。制度の移行期に当たってのニーズはあったのかもしれないが、それは数年で変わっていく。その時、たぶん無理しても制度に合わせていく方向で動いた。そして結局上手くいかなかった。
 
自分の給与のピークは額面で20万円、それが続けられたのは、10年には満たなかったと思う。年金や保険料の支払いが滞った時期もある。
その頃もだが、貯金するという心得がなく、ただ今使う現金にあまり困らなければいいという感じだった。。
 
事業は継続することを大前提に考えていた。
当初の想いと少しずつズレていってもそうしたことには「封」をして、収入を上げることを第1に、今と今後をどうするか考えていた。
 
そうはいっても切羽詰まって思い悩む毎日ではなかった。直接はあまり役に立たないだろうが、清掃の勉強会に毎月横浜までいったり、グループホーム開設のために、コレクティブハウスやシェアハウスの見学や勉強会にも参加した。
 
足下をあまり見ず、先のことを思ってついつい眺めてしまう。
事業には向いていないのだろう。
 
小さい事業所だから、対外的なやり取りから、会計などの事務作業、そして現場作業も全部やらなければならない。
自分のような不器用でいい加減な非社交的人間には、自分流でやれる楽さもあったが、事業としての限界はすでに抱えていたのだろう。
といっても、組織の中で折り合いをつけながら一職員として働くということにも良くも悪くも耐えていくことをしなかったし、出来なかったのだ。
 
いずれにしても、歩む途は、いつか知らない何処かに辿りつく。
暴飲暴食で腹回りを中心にだいぶ無駄な肉がついた。人を傷つけ、自分も傷つき、しかし助けられもして今に至っている。

第14章 野辺地での1年目(2023年3月29日~2024年3月末) 

野辺地町に到着したのは、2023年3月29日の昼過ぎだった。役場に行って必要な手続きをし、夕方連れ合いの赴任先の教会に顔を出す。
その日は町内のビジネスホテルに泊まる。
 
今日はちょうどそれから1年後の3月29日。
今日は夕方から教会で受難日礼拝だ。
朝から雨が降っている。山積みになっていた雪もだいぶ小さくなりまたこの雨で僅か残すだけになるだろう。
 
1年前、翌30日朝から住居となる牧師館で引っ越し荷物を降ろす。日通引っ越し便のコンテナも3つ届く。教会員の方も手伝いに寄ってくれた。
 
なんとか辿り着いたもののだいぶぐったりしていた連れ合いの母親は、午前中「牧師館」で少し横になり、午後は浅虫の病院に連れていって、そのまま入院になる。容態が落ち着いたら野辺地町内の介護施設に入所予定だったが、そのあと7月1日早朝に亡くなった。
 
この1年のあいだ、山麓、世田谷とも何度か往復する。荷物を持ってきたりすることもあり、軽貨物車で途中1、2泊しながらの旅だった。
山ろくの家の庭は荒れ放題で、11月末には草刈り機を積んで行く。
 
野辺地での生活は、日曜日の教会礼拝の週報の入力、春先から秋は周りの草刈り。冬は雪かき。と思ったが年々暖冬で、それに除雪車が奥まで入ってくれるので、数回のまともな雪の日のほかは部屋に籠ったままだった。
 
体を動かすことが少なくますます硬いぜい肉が増えた。 
 
これからの季節は、周りの草刈りなどもあるから少しは体を動かす機会も増えるだろう。
 
さらにまた1年、この1年とほぼ同じ日課で時々出かけたりしながら、課題も抱えて、厭きずに過ごしていけたらと思う。

第1章 府中、西馬込(大田区)時代

高校卒業後、1974年3月から、75年3月までの1年間、府中市北山町と大田区西馬込に住んだ。

 

上京して、府中のはずれ北山町にある大学寮に入る。ここから1時間くらい歩いて国立駅まで行き、電車に乗って飯田橋駅で降りる。
入学した法政大学に少しだけ通った。学生が沢山いた。大教室や食堂はいつも人だらけだった。
 
親元から離れたかったが、東京は親戚もいて影響下にあった。
物理的な距離もだが、自分が関わる人たちを新たに作り出していくことで、自分の立ち位置が更新されていく。それにはまだまだ年月がかかる。
 
とりあえずこの年のことを書き記そう。 
 
群馬の実家から遠いこと、自分の学力からなんとか可能と思った志望校に再受験を目指した。
大学には行かなくなり、清掃のアルバイトを始めた。職場は東京女子医大だった。その後ちゃんと試験勉強しろということで夏前には仕事を辞め、大田区西馬込の安アパートに引っ越し、大学には退学届けを出した。
 
しっかりと受験勉強したかどうかは疑問だ。
地下鉄で通い易かった区立三田図書館で勉強した。代々木ゼミの講座も1、2受講した。小田実の英語長文読解ゼミは印象に残っている。ダミ声で英文を読み、インド人の養子の話などしてくれた。
図書館は慶應大学の近くで安い食堂が多く、図書館の日替わりランチも安くて美味しくお気に入りだった。
志望校は立命館大学の史学科だった。これは高校の時に読んだ「二十歳の原点」が大きく影響している。
 
この時代は特に人と関わることなく過ごす。
西馬込のアパートは隣人がうるさかった。1階には家族が住んでいたのか日中は子どもの大きな歌声がいつもしていた。2 階は4室みな独身男だった。隣室の勤め人は帰って来るとすぐテレビをつけ夜放送終了になっても消さないで寝るらしい。夜中「ザー」という音に苛まれた。ラジオのスピーカーを隣室の壁に押し付けて対抗した。
部屋のすぐ前が共同炊事場だった。小さな窓が一つあるだけであとは薄壁で囲われた四畳半だった。
 
結局、再受験は失敗して法政大学社会学部に復学した。
親が親戚に頼んで見つけてくれた新小岩の中川近くのアパートに引っ越す。ここに6年と少しいることになる。
 

第2章 新小岩(江戸川区)時代

総武線新小岩駅南口から歩いて10分くらいの中川の少し手前にある雑貨屋の2階、四畳半一間に半畳の流し付きのアパートに6年くらい暮した。法政大学社会学部に復学した1975年春から、北海道然別湖畔のホテルにバイトに出発する1981年4月末までだ。
大学は5年で卒業した。その後1年丸の内にあった社員50人ほどの貿易商社で働いた。
 
大学ではあまり授業には出ず、結局単位がなかなか取れなかった。語学の授業は再試験が当たり前、体育の授業は武蔵小杉だかで開講していて、遠方のためなかなか行かなかった。次年度、飯田橋付近の体育館で開講する補講を申込んだが受講者が多くて受講できず、その翌年3年になって受講した。が、ひたすら近隣をみんなでジョギングというのが映画で見る刑務所の運動時間のようで馴染めず、所定の出席数(年10回、5割)を満たせず留年。3年をもう1年することになる。その時は大きな誤算と思ったが、必要な単位もだいぶ残っていたのでその分楽になったのは事実だ。
またそのおかげで出合えた人もいる。
 
当時の大学は、学生運動の残骸置場のようであった。立て看板はいつも目にした。マイクでのアジテーションも、特に試験前は激しかった。大学時代最後の1、2年を除き試験はほぼレポートだったように記憶している。
「全ての労働者、学生諸君!…」と始まる騒音は、授業を妨害した。その声(音)はどこに向かって発っせられているのか?
日中、学校では学びに会社や工場では労働に、人々は貴重な時間を使っているのに。
 
20代前半の自分は学生という執行猶予期間をそれなりに大事にしたいと思っていた。
関心のある授業やゼミ、そして興味のおもむくままの読書、生活費と社会体験を得るためのアルバイトに時間を費やした。
1955(昭和30年)生の地方から上京した自分は、いわゆる「遅れてきた青年」と言われる世代だ。時代や社会の大きな変り目に少し遅れて、東京にやってきたらしいことを自覚している。残骸しかないし残骸しか知らない、そんな状況で、ともかく内向きな読書に自分なりに勤しんだ。
そしていずれ、その遅れを取り戻さなければならない。
とは言っても、一人では限界がある。その頃入ったサークル「経済史研究会」と学部のゼミが関心の方向を示してくれた。
初期のマルクスマックス・ウェーバー吉本隆明真木悠介、また真崎守から山尾三省を知る。
その後影響を受けて、屈折しながら今に至っている。
 
それらは、資格や職業的立場に結びついていくものでなく、逆に身心共に持ち合わせ容量がそれほどない自分にこれから何をしていくかという問いを、大きく深く向き合わせられることになった。
 
アルバイトは、清掃、飲食系、深夜の警備、宿直と色々やった。
これも始めは親戚の家でいとこの家庭教師を仰せつかったが、そうした血縁関係から離れたかった自分には、どこか息苦しいところがあった。
 
少し落ち着いて2年くらいやれたのは高円寺駅近くの病院の宿直の仕事だった。
同年代の学生が多く、夜は電話番をしながら、本も読めた。慣れてくるとだいぶアルコールも飲んだ。病院の事務の人たちとの忘年会等の飲み会も時々あってそれなりに楽しくやれたのだろう。
宿直の親方にひたすら酒を飲まされた。そのうちそれが孤独な酒だと知る。仕事がない時も宿直仲間と高円寺で合流してガード下の居酒屋で始発電車が来るまで飲んだことも何度かあった。
その頃は、新小岩と高円寺の二重生活だった。
そこで知り合った仲間と泊まりがけで南アルプス甲斐駒ヶ岳に登った。
 
辛くみっともないこともした。
病院の事務員に新しく入った女性を好きになりアルコールの入った勢いで電話をして、好きだ、と「宣言」したのだった。
後年、映画「舟を編む」で「酔っ払ってプロポーズすること」が「ダサい」の用語例として語られていたが、その比ではない。翌日、数十秒間無言で睨み付けられた。呆れた「ダサ惨め」だった。
さらに後日談。「事件」の翌々年だったか、社会人1年生となった自分は彼女に連絡して一度食事を共にした。そして、もっといろんな女性と付き合いなさいと、助言をもらったのだった・・・。
 
・・・そんな20代前半の時代は充実していた(?)分、年月の経ちかたが手足で確認できる速さだったのかもしれない。飯田橋駅から大学までの外堀通りの桜をあと何年眺めることになるのかと思っていた。
坂口安吾の「桜の満開の木の下で」が頭をよぎる。テーマは違うのかもしれないが、その頃の自分は不明な情念を抱えたまま日々過ごしていた。
 
自分もやっと大学4年生になった。
その頃は残骸もなくなり、学内は華やいでいた。
この年は新任講師として赴任した、舩橋晴俊先生の授業とゼミを受けた。
当時9時から始まる1時限の授業を受ける学生は少なかった。
早い時間に学内にいると大学当局者ではない某当局者に学生証の呈示を求められたりした。
 
舩橋先生について知っていることは見田宗介(真木悠介)ゼミ出身というだけであった。真摯に基礎的な学ぶ方法、考える方法を学んだように思う。
卒業後も毎年ゼミで卒論発表会などを企画して刺激を与えてくれた。
 
自分の具体的な去就は決められなかったが、ともかく就職しなければと思った。人並みに就職活動らしいこともした。
結局2月になって、水道橋駅近くにあった大学生向け就職紹介所のようなところで見つけた、炭素製品と石油を扱う社員50人くらいの貿易商社商社に就職した。
 
ネクタイ締めて働いた人生で1年だけのサラリーマン生活だった。
 
 
 
 
 
 
 

第4章 田無時代

然別での仕事が終わり、1981年10月から西武新宿線田無駅近くにアパートを借りて暮らす。2年と少しの期間だったと思う。
 
所沢の学校の入学試験には、たぶん2回落ちた。受験資格が30歳までだったので、少し焦った。大学入試の頃から試験に受かることに見放されている。
それがまた縁に出会うことになるのだが・・・。
 
この時代は試験勉強をしながらアルバイトをしていた。
学生時代に働いた、高円寺にあった病院の宿直の仕事を頼んで、少ししていた時期もある。
取りまとめのリーダ-で、万年司法試験受験生だったNさんにもさりげなく世話になった。
ただひたすら飲むという酒の飲み方も経験させてもらった人だ。
その後Nさんは受験を辞め、実家のある五島列島に帰ったと聞いている。
 
あとは新宿高層ビル内のレストランの皿洗い、そして結局病院清掃に落ち着いた。
偶然にもそれは東京に出てきて初めて働いた新宿区内の病院で、所属も同じ。各箇所を1、2か月の周期でポリシャーという機械で洗浄し仕上げにワックスを塗布する、定期清掃担当の「洗浄班」だった。
 
清掃の仕事は、体力的にきついところもあったが、ストレスを溜めないで続けられた。その後大塚の病院でも「洗浄班」を立ち上げることになり希望して移ったが、ここはより気楽にやれた。夕飯は病院の食堂で定食が100円で食べられた。
 
今振返ってみると、勤め先は大手の清掃会社だったが、働き方は正社員でもアルバイトでも気楽にマイペースに働いている人が多かったように思う。
日常清掃で働いているおば(あ)さんには70歳過ぎの人もいた。力がないので便器の汚れを擦って落とせないと現場責任者さんはいつも愚痴っていた。ごみ焼却担当のおじ(い)さんは365日休まない人で主(ぬし)と呼ばれていた。
 
病棟各階には3、40代の男性正社員が主任として入っていて、その当時の自分の印象でも皆さん働く選択肢が少なそうな人たちだった。
自分もだいぶ少ない選択肢の中から自分に適う仕事を探していた最中だったが・・・。
だが清掃の仕事は、社会の裏方で、あくまで期間限定の気持ちがあった。
それほど入り組んだ人間関係のなかでする仕事でなく、やり易かったのかもしれない。
そして成果が確認できることも精神衛生上よかったのかもしれない。
 
だがその頃の自分は社会の表方?の仕事を探していた。
それが20年くらい後に、清掃を事業の中心にする法人を立ち上げることになる。
 
清掃の仕事を始めて間もない頃、病院内の掲示板で、日曜日に障害児と一緒に過ごすボランティアを見つけて始めた。
人と関わること、それも原点は子供だ。さらに障害を抱えている。彼ら彼女らといることで社会の色々な事柄が正しく見えてくるに違いない。そう思った。
これは学生時代に読んだマルクスユダヤ人問題によせて』の一文から影響を受けている。
次のような内容だった。~「根本的なところから考え始めることで、社会のあり方がわかる。そして人間にとっての根本は人間、特に最も矛盾した立場にある賃労働者だ。」
それを当時の自分は「人間の原点としての子供」そして「社会のあり方から影響を受け生きづらい立場におかれている障害児者と呼ばれる人たち」に重ね合わせていた。
 
「これから」について決めなければならない時期にいた自分は、その方向付けに納得できる根拠と具体的な対象をそこに見出した。
 
さて実際のボランティア活動だが、「日曜学級」という名称で東京都の西、五日市にある公民館を拠点に月1回開催していた。
20代の男女が多くボランティアで参加していた。
そして始めて「自閉症」といわれる人たちと関わった。彼ら彼女らの「非社交的な態度」に惹かれていった。
始めてすぐに1泊の夏キャンプがあって、10歳くらいの自閉症の女の子、Mちゃんの担当になった。
顔合わせで、「よろしくね。」と言った時、Mちゃんはすごく嫌そうな表情をした。
これは困った、それに自分の表情も少しひきつっていたと思う。
キャンプの日、なんとかMちゃんと仲良くならなければと、一緒に担当になったボランティアの女性とMちゃんの妹さんと共に近くで関わり続けた。
夕飯後も、体力勝負で「高い高い!」や「おうまさんごっこ!」をひたすらやった。
そのうちMちゃんの方からニコニコとせがんできた。夜がふけるにしたがって盛り上がり、最後は施設職員をしている責任者の人から、静かにして早く寝るように注意されてしまった。
 
毎月1回の定例会ではNくんという10歳くらいの自閉症の少年の担当になることが多かった。
いつもカーテンの中に隠れている。
これから、みんなで近くの河原まで行こうというときも一番最後にしぶしぶという感じで動き出す。そして途中のバス停で立ち止まる。バスに乗って行きたいところがあるのか?なら別行動で一緒に行ってみるか?
会の責任者の人がさりげなく促すとまた歩きだした。
自分はその前にあれこれ考えてしまう。
 
特に楽しいというふうではないが、彼は毎月1回休まず参加していた。
だから参加すれば彼に、それにボランティアの若い女性たちにも会える訳で、休日といっても特に予定のない自分には嬉しい場所だった。
 
そのうち他の休日にも、Nくんを連れ出したり、有志を募って奥多摩の山にハイキング、軽登山に出かけたりした。
 
今振り返れば、試験を受けるという名目で充実した猶予期間を過ごしていた訳だ。
 
その後1983年6月から小金井市にある障害児の通園施設で働くことになって、たぶん翌84年の春頃国分寺のアパートに引っ越す。
それは、日曜学級の縁からの次の一歩だった。