放浪縄文人の日誌

30歳過ぎて山麓に30年以上暮し、その後1年東京世田谷で暮し、2023年3月末から本州の北の方に行った老人の折々の日誌

第4章 田無時代

然別での仕事が終わり、1981年10月から西武新宿線田無駅近くにアパートを借りて暮らす。2年と少しの期間だったと思う。
 
所沢の学校の入学試験には、たぶん2回落ちた。受験資格が30歳までだったので、少し焦った。大学入試の頃から試験に受かることに見放されている。
それがまた縁に出会うことになるのだが・・・。
 
この時代は試験勉強をしながらアルバイトをしていた。
学生時代に働いた、高円寺にあった病院の宿直の仕事を頼んで、少ししていた時期もある。
取りまとめのリーダ-で、万年司法試験受験生だったNさんにもさりげなく世話になった。
ただひたすら飲むという酒の飲み方も経験させてもらった人だ。
その後Nさんは受験を辞め、実家のある五島列島に帰ったと聞いている。
 
あとは新宿高層ビル内のレストランの皿洗い、そして結局病院清掃に落ち着いた。
偶然にもそれは東京に出てきて初めて働いた新宿区内の病院で、所属も同じ。各箇所を1、2か月の周期でポリシャーという機械で洗浄し仕上げにワックスを塗布する、定期清掃担当の「洗浄班」だった。
 
清掃の仕事は、体力的にきついところもあったが、ストレスを溜めないで続けられた。その後大塚の病院でも「洗浄班」を立ち上げることになり希望して移ったが、ここはより気楽にやれた。夕飯は病院の食堂で定食が100円で食べられた。
 
今振返ってみると、勤め先は大手の清掃会社だったが、働き方は正社員でもアルバイトでも気楽にマイペースに働いている人が多かったように思う。
日常清掃で働いているおば(あ)さんには70歳過ぎの人もいた。力がないので便器の汚れを擦って落とせないと現場責任者さんはいつも愚痴っていた。ごみ焼却担当のおじ(い)さんは365日休まない人で主(ぬし)と呼ばれていた。
 
病棟各階には3、40代の男性正社員が主任として入っていて、その当時の自分の印象でも皆さん働く選択肢が少なそうな人たちだった。
自分もだいぶ少ない選択肢の中から自分に適う仕事を探していた最中だったが・・・。
だが清掃の仕事は、社会の裏方で、あくまで期間限定の気持ちがあった。
それほど入り組んだ人間関係のなかでする仕事でなく、やり易かったのかもしれない。
そして成果が確認できることも精神衛生上よかったのかもしれない。
 
だがその頃の自分は社会の表方?の仕事を探していた。
それが20年くらい後に、清掃を事業の中心にする法人を立ち上げることになる。
 
清掃の仕事を始めて間もない頃、病院内の掲示板で、日曜日に障害児と一緒に過ごすボランティアを見つけて始めた。
人と関わること、それも原点は子供だ。さらに障害を抱えている。彼ら彼女らといることで社会の色々な事柄が正しく見えてくるに違いない。そう思った。
これは学生時代に読んだマルクスユダヤ人問題によせて』の一文から影響を受けている。
次のような内容だった。~「根本的なところから考え始めることで、社会のあり方がわかる。そして人間にとっての根本は人間、特に最も矛盾した立場にある賃労働者だ。」
それを当時の自分は「人間の原点としての子供」そして「社会のあり方から影響を受け生きづらい立場におかれている障害児者と呼ばれる人たち」に重ね合わせていた。
 
「これから」について決めなければならない時期にいた自分は、その方向付けに納得できる根拠と具体的な対象をそこに見出した。
 
さて実際のボランティア活動だが、「日曜学級」という名称で東京都の西、五日市にある公民館を拠点に月1回開催していた。
20代の男女が多くボランティアで参加していた。
そして始めて「自閉症」といわれる人たちと関わった。彼ら彼女らの「非社交的な態度」に惹かれていった。
始めてすぐに1泊の夏キャンプがあって、10歳くらいの自閉症の女の子、Mちゃんの担当になった。
顔合わせで、「よろしくね。」と言った時、Mちゃんはすごく嫌そうな表情をした。
これは困った、それに自分の表情も少しひきつっていたと思う。
キャンプの日、なんとかMちゃんと仲良くならなければと、一緒に担当になったボランティアの女性とMちゃんの妹さんと共に近くで関わり続けた。
夕飯後も、体力勝負で「高い高い!」や「おうまさんごっこ!」をひたすらやった。
そのうちMちゃんの方からニコニコとせがんできた。夜がふけるにしたがって盛り上がり、最後は施設職員をしている責任者の人から、静かにして早く寝るように注意されてしまった。
 
毎月1回の定例会ではNくんという10歳くらいの自閉症の少年の担当になることが多かった。
いつもカーテンの中に隠れている。
これから、みんなで近くの河原まで行こうというときも一番最後にしぶしぶという感じで動き出す。そして途中のバス停で立ち止まる。バスに乗って行きたいところがあるのか?なら別行動で一緒に行ってみるか?
会の責任者の人がさりげなく促すとまた歩きだした。
自分はその前にあれこれ考えてしまう。
 
特に楽しいというふうではないが、彼は毎月1回休まず参加していた。
だから参加すれば彼に、それにボランティアの若い女性たちにも会える訳で、休日といっても特に予定のない自分には嬉しい場所だった。
 
そのうち他の休日にも、Nくんを連れ出したり、有志を募って奥多摩の山にハイキング、軽登山に出かけたりした。
 
今振り返れば、試験を受けるという名目で充実した猶予期間を過ごしていた訳だ。
 
その後1983年6月から小金井市にある障害児の通園施設で働くことになって、たぶん翌84年の春頃国分寺のアパートに引っ越す。
それは、日曜学級の縁からの次の一歩だった。