放浪縄文人の日誌

30歳過ぎて山麓に30年以上暮し、その後1年東京世田谷で暮し、2023年3月末から本州の北の方に行った老人の折々の日誌

第2章 新小岩(江戸川区)時代

総武線新小岩駅南口から歩いて10分くらいの中川の少し手前にある雑貨屋の2階、四畳半一間に半畳の流し付きのアパートに6年くらい暮した。法政大学社会学部に復学した1975年春から、北海道然別湖畔のホテルにバイトに出発する1981年4月末までだ。
大学は5年で卒業した。その後1年丸の内にあった社員50人ほどの貿易商社で働いた。
 
大学ではあまり授業には出ず、結局単位がなかなか取れなかった。語学の授業は再試験が当たり前、体育の授業は武蔵小杉だかで開講していて、遠方のためなかなか行かなかった。次年度、飯田橋付近の体育館で開講する補講を申込んだが受講者が多くて受講できず、その翌年3年になって受講した。が、ひたすら近隣をみんなでジョギングというのが映画で見る刑務所の運動時間のようで馴染めず、所定の出席数(年10回、5割)を満たせず留年。3年をもう1年することになる。その時は大きな誤算と思ったが、必要な単位もだいぶ残っていたのでその分楽になったのは事実だ。
またそのおかげで出合えた人もいる。
 
当時の大学は、学生運動の残骸置場のようであった。立て看板はいつも目にした。マイクでのアジテーションも、特に試験前は激しかった。大学時代最後の1、2年を除き試験はほぼレポートだったように記憶している。
「全ての労働者、学生諸君!…」と始まる騒音は、授業を妨害した。その声(音)はどこに向かって発っせられているのか?
日中、学校では学びに会社や工場では労働に、人々は貴重な時間を使っているのに。
 
20代前半の自分は学生という執行猶予期間をそれなりに大事にしたいと思っていた。
関心のある授業やゼミ、そして興味のおもむくままの読書、生活費と社会体験を得るためのアルバイトに時間を費やした。
1955(昭和30年)生の地方から上京した自分は、いわゆる「遅れてきた青年」と言われる世代だ。時代や社会の大きな変り目に少し遅れて、東京にやってきたらしいことを自覚している。残骸しかないし残骸しか知らない、そんな状況で、ともかく内向きな読書に自分なりに勤しんだ。
そしていずれ、その遅れを取り戻さなければならない。
とは言っても、一人では限界がある。その頃入ったサークル「経済史研究会」と学部のゼミが関心の方向を示してくれた。
初期のマルクスマックス・ウェーバー吉本隆明真木悠介、また真崎守から山尾三省を知る。
その後影響を受けて、屈折しながら今に至っている。
 
それらは、資格や職業的立場に結びついていくものでなく、逆に身心共に持ち合わせ容量がそれほどない自分にこれから何をしていくかという問いを、大きく深く向き合わせられることになった。
 
アルバイトは、清掃、飲食系、深夜の警備、宿直と色々やった。
これも始めは親戚の家でいとこの家庭教師を仰せつかったが、そうした血縁関係から離れたかった自分には、どこか息苦しいところがあった。
 
少し落ち着いて2年くらいやれたのは高円寺駅近くの病院の宿直の仕事だった。
同年代の学生が多く、夜は電話番をしながら、本も読めた。慣れてくるとだいぶアルコールも飲んだ。病院の事務の人たちとの忘年会等の飲み会も時々あってそれなりに楽しくやれたのだろう。
宿直の親方にひたすら酒を飲まされた。そのうちそれが孤独な酒だと知る。仕事がない時も宿直仲間と高円寺で合流してガード下の居酒屋で始発電車が来るまで飲んだことも何度かあった。
その頃は、新小岩と高円寺の二重生活だった。
そこで知り合った仲間と泊まりがけで南アルプス甲斐駒ヶ岳に登った。
 
辛くみっともないこともした。
病院の事務員に新しく入った女性を好きになりアルコールの入った勢いで電話をして、好きだ、と「宣言」したのだった。
後年、映画「舟を編む」で「酔っ払ってプロポーズすること」が「ダサい」の用語例として語られていたが、その比ではない。翌日、数十秒間無言で睨み付けられた。呆れた「ダサ惨め」だった。
さらに後日談。「事件」の翌々年だったか、社会人1年生となった自分は彼女に連絡して一度食事を共にした。そして、もっといろんな女性と付き合いなさいと、助言をもらったのだった・・・。
 
・・・そんな20代前半の時代は充実していた(?)分、年月の経ちかたが手足で確認できる速さだったのかもしれない。飯田橋駅から大学までの外堀通りの桜をあと何年眺めることになるのかと思っていた。
坂口安吾の「桜の満開の木の下で」が頭をよぎる。テーマは違うのかもしれないが、その頃の自分は不明な情念を抱えたまま日々過ごしていた。
 
自分もやっと大学4年生になった。
その頃は残骸もなくなり、学内は華やいでいた。
この年は新任講師として赴任した、舩橋晴俊先生の授業とゼミを受けた。
当時9時から始まる1時限の授業を受ける学生は少なかった。
早い時間に学内にいると大学当局者ではない某当局者に学生証の呈示を求められたりした。
 
舩橋先生について知っていることは見田宗介(真木悠介)ゼミ出身というだけであった。真摯に基礎的な学ぶ方法、考える方法を学んだように思う。
卒業後も毎年ゼミで卒論発表会などを企画して刺激を与えてくれた。
 
自分の具体的な去就は決められなかったが、ともかく就職しなければと思った。人並みに就職活動らしいこともした。
結局2月になって、水道橋駅近くにあった大学生向け就職紹介所のようなところで見つけた、炭素製品と石油を扱う社員50人くらいの貿易商社商社に就職した。
 
ネクタイ締めて働いた人生で1年だけのサラリーマン生活だった。