放浪縄文人の日誌

30歳過ぎて山麓に30年以上暮し、その後1年東京世田谷で暮し、2023年3月末から本州の北の方に行った老人の折々の日誌

第13章 烏山時代 2022年3月~2023年3月

町のこと。

2022年3月から2023年3月まで烏山(東京世田谷)で暮らした。
山麓を撤退して、認知症の母親のいる連れ合いの実家で3人暮らしだった。
20年あまり続けてきたNPO法人は2月に解散申請を出して、あとは順番に書類を出し続け、問題なく6月に解散登記完了となった。自分が責任持ってやっていた事業を辞めたことで、事件は時々起こるにしても大概平穏な日々を過ごせた。
 
都会には独特のちょっと驚くことがある。
街を歩けば、真横や真正面から人や自転車が向かってくる。年齢的に瞬時に左右に位置を移動出来なくなっているのでいつも神経を使う。時々接触寸前の危なさを味わう。
自転車の前と後ろに幼児を乗せてよくあのスピードで渋滞を掻い潜って走れるものだ。平和な社会の風景なのだろうかとも思ったりする。
 
それでも老若男女が犇めく千歳烏山駅界隈は埋没できる安心感がある。
都会暮しをしていた若い頃の感覚が埋め込まれているのだろう。
区民センター内の図書館には元気な老人たちが集う。その前の広場にはアルコール缶を持つ人やダンスの練習をする高校生、隅にある遊具で遊ぶ子どもたちなどたくさんの人たちが集う。駅の南北を隔てる「開かずの踏み切り」の開くのを待つ人、人、人。もう少し暮らしたかったと思える町だ。
もっとも今も数ヵ月に一度は烏山に終活に行っているが。
 
仕事のこと。
3月下旬から仕事を探し、結局馴れている清掃の仕事を京王線で2駅先の大きな病院に決めた。山麓の家の片付けもあるため週3回それも希望する月~水でよいというのが決め手になった。
始めてみると平日ほぼ30人くらいが働いているのか…。皆さん時間帯、曜日それぞれで働いている。7時から16時というのが主なようだが、午前だけ、午後だけ、それに出る曜日も人それぞれだ。そして70歳前後は労働者の中心だ。自分はまだ少し若い部類か?
2、3人20歳代の人がいたが、自分がいた数ヵ月で次々と辞めて行った。
シフトを組むのが大変だろうなと思う。
自分は9時~16時の勤務で午前3時間、午後3時間でシフトが組まれた。だいたい午前3時間で病棟1ヶ所、午後3時間でコンピューター棟プラス道路掃きというパターンから始まったが次第に担当できる箇所を増やされて行った。週3回それも都合で不定期に休むわけだからシフト編成上仕方ない訳だが、各病棟によってやり方が微妙に違うし、いわゆるカラーリング、ゾーニングの決まりがしっかりと形式的にあり、順守すれば実質作業に使える時間が限られている。ベットの下の除塵はしない、目視で汚れてない箇所は極力やらないを心掛けないと時間内には終わらない。 それでも馴れてくるとだいたいの時間予測が出来るので楽かもしれない。ベテランの方々は上手に時間を使って、丁度よい時間に引き上げてくる。
担当箇所が変わると時間予測が難しくなる。
定期清掃も時々シフトに入ってくる。ワックスは基本塗らないが、ベットその他備品を全て移動してバランスの悪いシャンピングポリシーでの作業は体力と神経を消耗する労働だ。
自分は基本8時10分には出勤して、着替え、タイムカード印字、シフト確認、資材準備、そしてその日のシフトが病棟だった場合は8時30分には病棟に到着するようにしていた。何しろ病棟によっては9時までにシャワー室の清掃を終わらせなくてはいけなかったから!
昼休みも事務室の一画で各自黙々と弁当食べ、そのあと10分くらい目をつぶってうつ伏せになるくらいだ。馴れてくるとトイレの大便器に座って休むことを覚えた。
だから書面上は1日6時間労働でも実態は7時間労働だった。
 
連れ合いの赴任先が次年度から青森県野辺地になり、また年明け風邪をひいてしまったので、1月半ばで辞めることにしたが、このような仕事スタイルを長く続けるのは自分には難しい。よい潮時ではあった。もっともどんな職場も自分には難しいのかもしれない。自分で始めたNPO法人の事業は勝手に辞める訳にいかず20年あまり続けることになったが。
 
家でのこと。
山麓に行かない日は夕飯作りが担当だった。
調理中、認知症の連れ合いの母親が元気な時は覗きにくる。火を使っていたりしていて危ないし何よりも調理の邪魔になる。そんな時は味見品を出すとそれに気持ちが行ってくれる。
冷蔵庫でも何でも開けて食べものその他を口に入れる。ドアを開けて夜中でも出掛けてしまう。一旦外に出たら帰っては来れない。何度か警察のお世話になった。
今ではなつかしく、楽しい思い出である。
3月末、北の町まで軽自動車でやっとたどり着いたが、そのまま病院に入院。3ヶ月後に静かに亡くなった。
 
仕事以外の時間のこと。
週3回の病院での仕事はきついとは言っても結局はその時間でのことだった。それが今までとは全く異なることだ。
だから家での夕飯作りを始めこの仕事以外のところがとても大事になった時代だった。
山麓へは毎月3、4日行っていたがそうでない日は図書館に通って今まであまり読まなかった小説、特に長編を読んだ。
カラマーゾフの兄弟」「戦争と平和」「晴子情歌」「石狩平野」など。
朗読サークルに参加したり、朗読を聞きに行ったり、日程が合えば駒沢大学の日曜坐禅会に行ったりした。
坐禅の流儀は曹洞宗でもそれぞれの寺で違う。自分は数年(といっても10年くらい)前から始めた小諸のお寺のやり方がやり易かった。始まる10~20分くらい前からでも行った時から各自壁面坐禅を始めてよいので坐禅することにより向き合えた。
駒沢坐禅会は開始時間までは通路側を向いての待機時間だ。馴れや慣習(それもわずかな期間の)は気持ちにそれなりに影響を与えるものだ。
 
2月くらいからは引越準備も忙しくなってきた。3月末の引越シーズンピークに引越さなければならず、日通の引越パックを世田谷から2パック、山麓から2パックで計画したが、世田谷からは予約が取れなかった。結局一部荷物を山麓に戻し、山麓から3パック送ることにした。あとはサンバーに3人+残りの空間が無いほどの荷物の積込計画をした。
また世田谷の家の庭に1坪弱のトタン小屋を作り、山麓から運んだすぐには捨てられない荷物を収納した。これも屋根の傾斜をどっちにするか最後まで悩んだ。出来て来ないと空間のイメージがわかないのはいつものことだ。
 
かくして、3月28日朝5時、スバルサンバーは烏山を出発した。