その頃はまだ今(2024年)からそれほど時間が経っていないので、記憶が比較的新しい、が遠くのそして異質な世界のことのようにも思える。
当時のノートに記してあることを参考に、今から時間の近い順に主観的かつ大雑把ではあるが辿ってみようと思う。
2022年5月27日「清算結了」。全ての手続きが完了した日だ。すでに東京世田谷で暮らし、週3回清掃のアルバイトをしながら山ろくの古家の片付けに通っていた。
2022年3月2日。御代田町内のクリニックが最後の定期清掃現場だった。一人でもやれるよう段取りを組んでいたが、ずっと何かと手伝ってくれてたHちゃんが来てくれる。心強く終えることができた。
2022年2月20日付で「解散」の書類を作成し、21日に法務局に郵送した。ここから2か月間の「官報公告」を含む諸々の手続きを慎重に始める。
22日は佐久市内のクリニックの最終定期清掃。連れ合いさんに応援してもらう。
2021年。この年はまだ法人の事業継承を模索していた。労金からの紹介で8月に長野県事業継承センターに相談に行ったりしたが、駄目だった。
ジモティには2019年から「事業継承者募集」を掲載して幾つか問い合せはあったが、なかなか次に進まなかった。2015年から現場作業を引き受けてもらっていた佐久市内の作業所は清掃のノウハウを習得しようという姿勢がなく事業継承の候補として考えることが出来なかった。一方で事業継承者が引き続き業務委託することで作業所も仕事(収入)を得られると考えられた。
そして最後に至り、作業所側から解散されては困ると言われ、もめることになる。
自分も最後まで事業継承にこだわった踏ん切りの悪さがあった。
結局、この年の終わりになって法人の解散に舵を取ることを決めた。
自分と法人はある意味イコ-ルで切り離すのは難しかった。
手続きの工程表を綿密に作成した。
そしていくつかの現場をこの作業所と小諸市内の作業所に引き継ぎ、あとは年度末で終了とした。
2020年。この年の初めにコロナウイルスが報じられ、春先から一気に流行した。前年の2019年4月に連れ合いは東京の神学校に入り、週末のみ佐久の教会に実習に来るようになっていた。
3月には糸魚川に「縄文の旅」に行く。コロナ禍の直前だった。
その後、日常清掃の現場は外部者の出入り制限で作業休止となる。契約単価が少なくシフトを組むのが大変な軽井沢のK園の作業がないことは、実はありがたいことだった。作業所は仕事が減り大変だったようだが…。さらにそのお陰で「持続化給付金」の申請ができた。御代田町にグループホーム用に購入した建物の借入金の残金をこれで清算できた。
「足を洗う」ための大きな障壁が一つなくなった。
2016年3月 施設内の店舗の契約終了。これも今振り返れば、一つの障壁の取り除きだった。そしてそのあとの数年間は清掃事業だけをどうにか続けていくことになる。
・・・この仕事は一人では出来ない。共に働くという目的に適う利点が逆に弊害になってきた。
毎日定まった時間働ける人は他の職場に行くし、残っているのは体調に波があって他の職場では勤まらない人だけになる。
毎日作業のある現場は70歳代の人でシフトを組んいたが、求人してもシルバー人材センターに依頼してもなかなか人は集まらなかった。
以前主力で働いていた、「一般就労」がわずかに難しいスタッフが、佐久市内にできたA型の作業所にいたこともあって、そこに現場作業を委託するようになり、次第にその依存度が高くなっていった。そのお陰で残りの年月続けていけたのだろう。
「福祉」の制度も整備され、戸籍を与えられて生活している人は誰も、特に法律で「障害者」と定義される人はその中で何が保証されるかがまず重要になる。
法人もそれに合わせて事業を変えるか、終わりにするかであろう。自分は終わりにするのが正解であった。
あとは個人的な課題として引き続きどのように取り組んでいくかだ。
体力、気力とも減っては来ているが、今はそんな地点にいるように思う。
幸い、その後(2023年3月末)連れ合いについて本州の北までやってきた。場所が与えられることはありがたいことだ。