放浪縄文人の日誌

30歳過ぎて山麓に30年以上暮し、その後1年東京世田谷で暮し、2023年3月末から本州の北の方に行った老人の折々の日誌

第9章 山麓時代④ 2005年の頃から。

2002年の法人設立から1つ2つと清掃の現場を受託していった。全くの「飛込み営業」だった。
小さいながらも事業者兼営業主任兼経理、総務主任兼現場作業主任と個人的な得手不得手にかかわらず何でもしなければならない。大変さを感じたが、全くの素人には新鮮な経験だった。
作業所ではなく、いわゆる一般の企業でもない小さな事業所で働くスタッフも「就労支援センタ-」などに相談に行って、紹介してもらった。毎日コンスタントに仕事があるわけでないのでニーズは限られていた。
 
2005年に小諸市内にある老健施設内にある喫茶店の運営業務を受託した。初めは市内の作業所に話がいったらしいが引き受け手がなく、法人の役員をお願いしていた地元の人の繋がりからの話だった。その人が是非始めたいというのが大きな力になった。
 
経営的な見通しでなく、やりたいという想いから機会を得て始まり、なんとか10年続けて後に打ち切ることになる。
 
清掃の仕事、喫茶店、その後始まったフットサルクラブなど、今思えば覚束ない土台の上に複数の事業が行われていたのが2005年からの10年ほど、自分が50代の頃だった。
毎年続けていた夏キャンプはこの年(2005年)を最後に終了した。掛け持ちで続けていたアルバイトも辞めた。事業の方に傾注する必要からだった。
 
この時代はたまたま具合よく続いていた数年であったのかもしれない。
法人に関する紙の資料は大部分処分してしまった。今となれば振り返りたくもないことが溜まっているからだ。
その一方で、こうして記憶を辿って、書き残そうとしている。
厭な性格だ。
 
「僕は自分の越し方をかえりみて、好きだった人のことを言葉すくなに語ろうと思う。」(小山清『落穂拾い』より)
この言葉をいつも傍らに置いて自分の振り返りが出来たらと思った。が、実に難しい。出来ないからこの言葉に惹かれたのだろうか。
ややもすると、嫌いな人を一刀両断(言葉少なに)に、あるいはあれこれと語ったり、好きな自分を言葉多く語りがちだ。だがそうしたことはさすがに虚しさを引きずるだけなのでやめようと思う。
 
「障害者」、「働く」というテーマで、清掃という業種で始めた法人だった。自分もそこで共に働いて収入を得て生活していくことが必要だった。そのことを大事にした。
小さいながらも想い描いた形に近づいていると思った、一瞬のわずかな時期があったかもしれない。それは、現実を自分に都合よく見ることに繋がる。制度の移行期に当たってのニーズはあったのかもしれないが、それは数年で変わっていく。その時、たぶん無理しても制度に合わせていく方向で動いた。そして結局上手くいかなかった。
 
自分の給与のピークは額面で20万円、それが続けられたのは、10年には満たなかったと思う。年金や保険料の支払いが滞った時期もある。
その頃もだが、貯金するという心得がなく、ただ今使う現金にあまり困らなければいいという感じだった。。
 
事業は継続することを大前提に考えていた。
当初の想いと少しずつズレていってもそうしたことには「封」をして、収入を上げることを第1に、今と今後をどうするか考えていた。
 
そうはいっても切羽詰まって思い悩む毎日ではなかった。直接はあまり役に立たないだろうが、清掃の勉強会に毎月横浜までいったり、グループホーム開設のために、コレクティブハウスやシェアハウスの見学や勉強会にも参加した。
 
足下をあまり見ず、先のことを思ってついつい眺めてしまう。
事業には向いていないのだろう。
 
小さい事業所だから、対外的なやり取りから、会計などの事務作業、そして現場作業も全部やらなければならない。
自分のような不器用でいい加減な非社交的人間には、自分流でやれる楽さもあったが、事業としての限界はすでに抱えていたのだろう。
といっても、組織の中で折り合いをつけながら一職員として働くということにも良くも悪くも耐えていくことをしなかったし、出来なかったのだ。
 
いずれにしても、歩む途は、いつか知らない何処かに辿りつく。
暴飲暴食で腹回りを中心にだいぶ無駄な肉がついた。人を傷つけ、自分も傷つき、しかし助けられもして今に至っている。