放浪縄文人の日誌

30歳過ぎて山麓に30年以上暮し、その後1年東京世田谷で暮し、2023年3月末から本州の北の方に行った老人の折々の日誌

第7章 山麓時代② 夏ワークキャンプのことなど

1990年代から2000年代始め。まだ慣れない山麓での暮らしで、働いて、食べて飲んで、いつも収支トントンの生活を日々繰返しながら、少しづつ変化していった。
 
90年代前半は春から秋まで別荘仕事、冬は軽井沢で水道工事のバイト。御代田に田畑を借りてからは農作業と冬場の土方作業。そのうち夏場も土方に行くようになった。
収穫した野菜は「セット野菜」として都会の知人に会員になってもらい、定期発送した。
 
また、その頃は週1回半日、牛乳や豆腐などの日販品の配達をしていた。旬のナスやピーマンがたくさん収穫できたときは、現金化のため10円、20円でも買ってもらう。
農業で生計を立てる困難さを感じた。
 
晩秋になると畑の片づけも早々に切上げ、現金収入を得るために日払いの仕事に出かけて行った。毎月の見通しある収入には程遠い生活だった。
 
1995年に、今に至る連れ合いさんが同居人として来ることになった。
知人の紹介で御代田町に古い一軒家を借りることができ、小諸の市営住宅から引越した。
少しは安定した収入が必要と考え、始めた仕事は日中(だいたい夕方からの)銀行清掃と月10回ほどのホテルの宿直のバイトだった。
その頃障害者グループホームの仕事も紹介されて始めたと思う。
そんなダブルあるいはトリプルワークをしながら農作業も続けていた。
 
グループホームでは週数回いわゆる世話人として食事の世話、朝夕の作業所への送迎などが仕事だった。そこで知らない土地で再び障害者との関わりが始まる。
が、ここも数年して運営者との方針の相違から辞めることになる。
2000年の少し前くらいから病院の午前中の日常清掃をパートで始める。そして午後(夕方)からの銀行の定期清掃と月末の新聞集金の仕事の3つの仕事を兼ねてやっていた。
まともな職(とは何かも疑問だが)にも就かず、のんきに年数を過ごしていた感もあるが、そのころはまだ焦りもしないで2人暮しを続けていた。
 
そんな中、「夏のワークキャンプ」も続いていた。東京の障害児通園施設で働いていた頃関わった子供たちとサポートしてくれるスタッフとで、だいたい8月のお盆前後3泊4日か4泊5日で行った。
畑でジャガイモやトウモロコシの収穫、山登りをしたり、日帰り温泉に行ったり、夕方からはバーベキューしながら食べて飲んでで、自分にとっても1年のうちで一番楽しい日々だった。
 
たしか2000年、夕方からの大雨で朝明るくなってみたらワークキャンプで宿泊していた山荘の前の道路の舗装が決壊していた。
上にある排水口が落ち葉などで塞がって水の流れを止めたのが原因だった。
斜面の道路に停めてあった車数台を動かすことが出来ずに途方に暮れていた。
丁度別荘に来ていた自動車会社勤務の方の助言で「タイヤの空気を抜いて地面との接地面を増や」して、決壊している道路を排水口がある地点まで登り、あとはう回路を通って抜け出ることができた。キャンプに参加してくれた方々には帰る日程を一日延期してもらうことになった。
これ以降、この別荘地(山荘)には寄り付き難くなった。
 
夏のワークキャンプはその後、2002年に設立した法人の事業が忙しくなり、体力的にもそろそろ限界か、という2005年まで続けた。
場所は変更し、御代田の借家(まだ荷物も少なかったからか25人くらい泊まった。)、また社協から補助金を得て2回ほどは小さな宿を貸し切って開催した。
 
そして1995年以降は、みんな帰ったあとにも自分ともう1人(同居人)が残り、静かに反省会兼打上げ会を行った。