放浪縄文人の日誌

30歳過ぎて山麓に30年以上暮し、その後1年東京世田谷で暮し、2023年3月末から本州の北の方に行った老人の折々の日誌

第1章 府中、西馬込(大田区)時代

高校卒業後、1974年3月から、75年3月までの1年間、府中市北山町と大田区西馬込に住んだ。

 

上京して、府中のはずれ北山町にある大学寮に入る。ここから1時間くらい歩いて国立駅まで行き、電車に乗って飯田橋駅で降りる。
入学した法政大学に少しだけ通った。学生が沢山いた。大教室や食堂はいつも人だらけだった。
 
親元から離れたかったが、東京は親戚もいて影響下にあった。
物理的な距離もだが、自分が関わる人たちを新たに作り出していくことで、自分の立ち位置が更新されていく。それにはまだまだ年月がかかる。
 
とりあえずこの年のことを書き記そう。 
 
群馬の実家から遠いこと、自分の学力からなんとか可能と思った志望校に再受験を目指した。
大学には行かなくなり、清掃のアルバイトを始めた。職場は東京女子医大だった。その後ちゃんと試験勉強しろということで夏前には仕事を辞め、大田区西馬込の安アパートに引っ越し、大学には退学届けを出した。
 
しっかりと受験勉強したかどうかは疑問だ。
地下鉄で通い易かった区立三田図書館で勉強した。代々木ゼミの講座も1、2受講した。小田実の英語長文読解ゼミは印象に残っている。ダミ声で英文を読み、インド人の養子の話などしてくれた。
図書館は慶應大学の近くで安い食堂が多く、図書館の日替わりランチも安くて美味しくお気に入りだった。
志望校は立命館大学の史学科だった。これは高校の時に読んだ「二十歳の原点」が大きく影響している。
 
この時代は特に人と関わることなく過ごす。
西馬込のアパートは隣人がうるさかった。1階には家族が住んでいたのか日中は子どもの大きな歌声がいつもしていた。2 階は4室みな独身男だった。隣室の勤め人は帰って来るとすぐテレビをつけ夜放送終了になっても消さないで寝るらしい。夜中「ザー」という音に苛まれた。ラジオのスピーカーを隣室の壁に押し付けて対抗した。
部屋のすぐ前が共同炊事場だった。小さな窓が一つあるだけであとは薄壁で囲われた四畳半だった。
 
結局、再受験は失敗して法政大学社会学部に復学した。
親が親戚に頼んで見つけてくれた新小岩の中川近くのアパートに引っ越す。ここに6年と少しいることになる。