放浪縄文人の日誌

30歳過ぎて山麓に30年以上暮し、その後1年東京世田谷で暮し、2023年3月末から本州の北の方に行った老人の折々の日誌

第5章 国分寺時代

日曜学級でNくんと関わるようになってしばらくした頃だった。

彼のお母さんから、彼が以前通っていた障害児通園施設で男性の職員を探しているという話を聞いた。

そのことが縁になって一度見学に行き、その後6月から働き始めることになる。
 
その後半年くらいして田無から国分寺に引っ越した。
国分寺駅南口から西国分寺駅方面に歩いて10分くらい、鉄道学園の少し先の一軒家の2階の部屋で1階には大家の老夫婦が住んでいた。東京暮らしで初めて専用トイレ付きだった。
職場は、国分寺駅北口から武蔵小金井駅方面に歩いて10分くらい、学芸大学と中央線の線路の中ほどにあった。
その頃はまだ駅ビルはなく、古びた駅舎だった。
 
国分寺は、その頃幾つか著作を読んでいた山尾三省が昔住んでいたところで、少し憧れの地でもあった。仲間と始めたという「ほら貝」という飲み屋も続いていた。その後、店はちょうど職場に行く途中のほかほか弁当店の2階に移った。一人で、友人と、職場の運動会の後の打ち上げでボランティアの人たちとで時々行って飲み食いした。旨い料理と酒があった。
三省やその仲間たちの詩の朗読会もその頃国分寺のお寺で開かれていたようでそのポスターなども店に貼ってあった。一度一人で飲んでいた時、ナナオサカキと同席し、握手してもらった。大きな手だった。
「味通」や「ほんやら洞」、他にも名前は忘れたが幾つかの飲み屋や定食屋、ラーメン屋に通い、一人暮らしの日々を支えてくれた。
都心から少し離れ、個性的な店も多くて、大きな公園もあり、住みやすい
街なのだろう。
 
その頃の自分はまだ将来を自信を持って定めることが出来なかった。何かを知るためには、まずそこに入って体験しなければならない。だから次の段階に進む時は、仕事も住む場所も変わるだろうことは考えるまでもないこととしてあった。
 
通園施設での仕事は、始めの1、2年は慣れるのに大変だった。通ってくる子どもはほぼ「自閉的傾向のある知的障害児」ということになるのだが、その度合いはみんな異なる。それにその子の個性、性格もある。
在園児は20人台前半。3クラスに分けそれぞれ3人の職員が担当する。クラス全体で保育する場面と個人担当の2、3人を個別指導で受持つ場面がある。
各クラスに1人の男性職員が振り分けられた。
自分が入った当初は「障害の」傾向、特性別にクラス編成していたが、毎年、年度始めに再検討していき、そのうち年齢別(年少、年中、年長)に落ち着いた。
 
専門的な知識はない、関わった経験は月1回のボランティアを1年くらい、そしてどこまで自覚していたか分からないが非社交的な特性のある人間が非社交的な特性のある子どもと関わるわけだ。
療育の場のため、一人一人目標を定めて関わるわけだが、なかなか上手くはいかない。
後日申し訳ないと思う対応をたくさんした。
そうした自覚がなくても一つ一つの対応がどうだったのか?ただ、常に真正面から向き合えた。それが出来る相手だった。
 
6月から働き始めたわけだが、その後5年間に渡り、直接担当する子どもは1年だったり2年だったりで、その子らとは一番深い関わりを持つ。そして同じクラスの子、3クラス全員20数人と関わりが生まれる。
合宿などの場面で担当になる子ともまた関わり付き合うことになる。
非社交的な者同士だが、色んな場面が設定された中で関わっていくことはそこに何かを生じさせる。人は本来的な意味で社交的、というか関わりの中にある生き物であること、そして関わりからしか生み出せないものがあることがわかる。
 
どうしても、彼ら彼女らの場合は関わりの中心は意図して関わろうとする大人になる。それも自分のような者というのも申し訳ないことだった。
 
最初に担当したTちゃん、いつも部屋の壁から壁まで何度も往復して走っていた。
90年代、山ろくでの夏キャンプにも参加してくれた。このときは、Uタ—ンする障害物がなかったからか、目を離した隙に道を走り去ってしまい、警察署に保護された。
笑顔でブランコにぶら下がっている5歳のTちゃんの写真が、今、廊下に飾ってある。
 
Yくんは直接の担当ではなかったが、同じクラスにいた<こだわり>の強い子だった。
下駄箱の自分の靴をいれるところに他の靴が入っているだけで大<パニック>になった。一度<パニ>くると、自分の手首を噛んだり、わめいたりがひたすら続く。
そんなYくんのために、清掃用具が入っていたスチ-ルロッカ-の内側に毛布などでカバ-を付け「リセット室」を作った。何度か彼をそこに入れたと思う。
Yくんが小学校に上がった時、一度見学(視察)に行った。いわゆる「普通学級」のクラスに所属して、担任の先生やクラスの子どもたちからさりげなく気にかけてもらっていて、表情も穏やかだった。「Yくんは天使のような子です。」という先生の話を聞いて<パニック>の時の彼を知っている自分はかなり驚いたものだった。帰りのホームルームが終わって30人ほどの児童が一斉に席を離れた。あれ、Yくんどこにいったのかな?と探していると、Yくんが自分の隣にいて手を握っていた・・・。
 
あれから40年。今どうしているのだろうか。
 
4年10か月の通園施設での仕事それと重なり合う国分寺での暮らしは、20代後半から30代初めの色褪せない出来事の数々がある。それはありがたいことだと思う。
日曜学級も続けていたが、次第に月1回より毎日の関わりのほうに夢中になっていき少しずつ遠のいていった。時々奥多摩の低い山に日帰り登山をしたり、母親の集まりに誘われて日帰りや一泊の旅行に出かけたりして余暇時間を過ごしていた。
日曜学級で知り合った区立保育園の保育士さんをしている女性と気が合ったのか、時々飲み食いに出かけていた。だがそれ以上の関係になることはなかった。気安く付き合えることを大事にしてその守備範囲を守ってしまったからだろうか。
自分のこれからの去就がどうなるかにも自信がなかった。
昭和の年号が終わる前年の1988年春、多くのものから離れて、信州の山ろく暮しが始まる。