放浪縄文人の日誌

30歳過ぎて山麓に30年以上暮し、その後1年東京世田谷で暮し、2023年3月末から本州の北の方に行った老人の折々の日誌

野辺地 2024年1月下旬

今日もめずらしく青空が見える。が、雲一つない晴天というのはまだ記憶にない。そしていつの間にか、曇ったり雨になったり、今の季節なら雪になったりだ。
 
もう少し雪が降り積もるかと思っていたが、気温が高く雪にならない。
温暖化が進んでいるのだろう。
 
今日は花豆を茹でている。弱火で6時間とあるので、少し長めに茹でて柔らかくしようかと思う。日曜日の教会の愛餐会(昼食会)用だ。
 
毎日買い物以外は家にいる。あとはたまに町の図書館に行くくらい。
本を読む。振返りをする。朗読をする。
パソコン入力。三つ折り週報用に貼ったり切ったりしてマスター原稿を作る。
それから夕飯作り。
大したものは作らないから手間はそれほどかからない。
雪かきもしばらく休業だ。
 

2024年1月の初め

 

静かな年の始め。
1日は夏泊半島の先、大島に行く。コンクリートの階段を登りさらに十数分歩いた。
雲っていたが遠方に陸地が見える。たぶん西が津軽半島、東が下北半島だろう。
夕方むつ湾を眺めながら野辺地へ。
そんな時間に能登半島地震があったとは。
湾内には津波は来なかったが、もし湾内が震源地ならば、大きな津波が発生しただろうと思う。
 
2日、3日と東北町の温泉に行く。
ありがたく日々を過ごす。

第3章 然別時代 1981年

25歳で大学をなんとか卒業した。
ともかく就職しなければと、年が明け2月頃、水道橋駅近くの旭屋書店の入っているビルの上の方にあった就職斡旋センターのようなところで仕事を探した。
そして1年間会社員をした。
しかしやはり自分には会社員は向かないと思い、早々に辞めることに決めた。
ではこれからの進路をどうするか?
非社交的人間故か・・・、「人に関わる」仕事という方向が一つ。その頃読んだ本で、言葉での表現に障害のある人のリハビリをする「言語療法士」という職業があって、当時は所沢にある専門学校で学んでその仕事に就くことができることを知った。
たまたま会社が終わった後、大学の図書館でサークルの先輩に会い、その学校に通っている人を紹介してもらって直接話を聞いたりもした。
 
漠然と計画を立てた。試験勉強をしないとならない、それにお金も貯めなければならない。
それよりも、6、7年の東京暮らしを一時中断して気持ちをリセットさせたかった。
 
会社は1980年4月から1981年3月までの1年で辞めた。炭素製品の輸出書類を作成するのがその頃の仕事だったが、あまり仕事も覚えられなかった。
 
会社を辞めたあと、少しだけ五反田の製缶工場で働いた。
そして4月末に羽田空港から帯広空港へ、そのあとバスで帯広駅経由で然別湖に向かった。湖畔に建つ温泉旅館の客室係が仕事だった。
 
そのあと自分のような季節アルバイトが10人くらい次から次にやってきた。
 
行った日、湖は一面凍っていた。
数日して朝眺めると湖面が静かに波打っていた。旅館の対岸にそびえる山の影が湖に映ると唇のかたちになる。天望山という名前だが、通称「くちびる山」と呼ばれているとのことだ。その後仕事が休みの時に登った。湖畔を回って頂上まで数時間で行けたように記憶している。
旅館での主な仕事は、客室の布団敷きと片付け。客が食事で部屋から出るとポケベルで連絡が来る仕組みだった。他にも、館内放送、スナック、土産屋などに季節アルバイトは振り分けられた。
近くの町から来た人も調理場、フロント、レストランなどで働いていた。
だいたい4月から半年働いて、あとは失業保険を受給して暮らしているような話だった。
仕事に慣れて来ると、夜仕事が終わったあと職場仲間数人で隣のホテルの居酒屋に飲み食いに行ったり、体力をもて余して湖畔を数キロ走ったりしていた。
本州からの出面取り(出稼ぎ)も近くの町から来ている人たちも同年代の者が多くいて、気安い雰囲気で過ごせたように思う。
週1回程度の休日には帯広の町に飲み食いに出たり、湖近くを歩いたりした。唯一の遠出は、電車とバスを乗り継いで襟裳岬に行ったことだ。
 
1981年は国際障害者年とかで、北海道新聞に全国のいくつかの活動が紹介されていた。その中に新得町の共働学舎があって、その後何度か泊まりがけで行った。
ここでのわずかな体験はこれからの歩みに少し影響を与えたかもしれない。
 
少しづつ知ることになるが、近隣から働きに来ている若い男女はほぼペアが成立している。本州から来た出面取りも伴侶が出来てこの地に住み着いたり、本州に戻ってから結婚したペアもいた。
 
自分は1年勤めた会社にいた片想いの女性が忘れられず、時々手紙を書いたりしていた。結局その後しっかり振られることになる。
 
ホテルの送迎バスの運転手さんの子がアルバイトでたまに来る。彼女は新得高校の3年生で初々しいかわいさのある子だった。一度だけ新得駅前の喫茶店で食事をした。
 
10月も半ば、仕事を終了して帰るバスに、旅館で働いている地元の女性が予期せず乗ってきた。彼女は気安く冗談の言える幼い感じのする女性で、昨夜の送別会になんで来なかったのか少し憤慨?していたのだが…。
一緒に十勝ワイン工場に行った。そして帯広駅で別れた。
それらはせいぜい数時間のシーンだけで、すぐ幕が降りた事柄だった。
そして温かい思い出になっている。
東京での生活とは異なる空気の中で、人たちと関わる時間があった。
  
再び東京に戻り、学校のある所沢から近い西武新宿線田無駅近くにアパートを借りて、アルバイトしながら試験勉強するという生活に入った。

第8章 山麓時代③ 法人設立の頃

2002年9月にNPO法人した。 2022年6月に「清算完了」で全ての解散手続きが済むまで20年余り、その事業と共にあった。
 
1990年代後半、収入的には(仕事の掛け持ちで)以前より安定してきたが、結局は自分で始めなければ、というところに選択肢が限られてきた。
キ-ワ-ドは「障害者」「働く」、そしてその手段は自分が経験ある「清掃」という方向が定まっていった。
 
パ-トで始めた病院の日常清掃を受託していたのは長野に本部のある「協同での仕事おこし」を掲げている組織で、清掃の経験があることから重宝がられた。
そこで県内の色んな清掃現場を見させてもらった。
 
1998年のNPO法制定後、県内でも設立のためのセミナ—等が松本や長野で開催され、同居人と二人あるいは一人でよく出かけていった。
地元の商工会主催の「創業セミナ—」にも参加した。
「〈自分が実現したいこと〉、〈社会的なニーズ〉、〈自分が出来ること〉その重なり合うところで事業を立案する。」という話をなるほどと思いながら聞いていた。
今まで雇用されて働いていたころにはあまり知る必要もなかったことを知ることが出来た。
この頃は、これから始めることへの興味と意欲が、実際的なさまざまな困難を上回っていた。
それから20年後に、自分がその事業から離れるためにどれだけの労力を費やすことになるかは露知らず・・・。
 
いくつかの手続きを経て、2002年9月にNPO法人として設立登記が完了した。
法人役員にはグループホームの仕事をしていた頃知り合った人たちになってもらった。
定款に記載した「事業の目的」は、次の通りだった。
「この法人は、障害のある人をはじめとして、社会的に働く場が得にくく、また社会体験の場が限られた人たちに対して、協働での仕事つくりとそのための支援活動、また社会体験の場の提供に関する事業を行うことを通じて、一人一人の多様な生き方、働き方を支援する仕組みつくり、組織つくりをし、もって社会全体の利益の増進に寄与することを目的とする。」
 
この法人の事業という限定された立場からではあるが、このあと多くの具体的な経験をすることになっていく。
 
 
 

12月28日 下北半島 大湊線

大湊線の電車に始めて乗った。毎日家から、運転手の鳴らす笛の音は聞いていのだが。
 
野辺地駅発10時過ぎの快速は八戸からの快速直通電車で、帰省客?で混んで座れなかった。暖房が効きすぎ空気がよどんでいて具合が悪くなる。
 
下北駅下車。用を済まし、大湊駅まで歩いた。
風がそれほどなく、寒さを心地よく感じる。
むつ市は車の通行量も多く、全国チェーンのお店もたくさんあって都会の雰囲気だ。
途中ケンタッキーの店で珈琲とポテトフライをいただく。
川には白鳥が10羽ほどいた。
新しい建物、使い込んだ建物そして朽ちたままの建物が入り雑じっての景観だ。
間近に恐山、その頂上のレーダーが見える。
1時間ほど歩き、昼食は大湊駅前の惣菜や弁当もおいてあるパン屋でいろいろ購入して駅の待合室で食べる。美味。
14時過ぎ発の電車で野辺地駅へ。
健康的な日帰り二人旅だった。
次回は半島の先まで行ってみたい。
 
 
 

第7章 山麓時代② 夏ワークキャンプのことなど

1990年代から2000年代始め。まだ慣れない山麓での暮らしで、働いて、食べて飲んで、いつも収支トントンの生活を日々繰返しながら、少しづつ変化していった。
 
90年代前半は春から秋まで別荘仕事、冬は軽井沢で水道工事のバイト。御代田に田畑を借りてからは農作業と冬場の土方作業。そのうち夏場も土方に行くようになった。
収穫した野菜は「セット野菜」として都会の知人に会員になってもらい、定期発送した。
 
また、その頃は週1回半日、牛乳や豆腐などの日販品の配達をしていた。旬のナスやピーマンがたくさん収穫できたときは、現金化のため10円、20円でも買ってもらう。
農業で生計を立てる困難さを感じた。
 
晩秋になると畑の片づけも早々に切上げ、現金収入を得るために日払いの仕事に出かけて行った。毎月の見通しある収入には程遠い生活だった。
 
1995年に、今に至る連れ合いさんが同居人として来ることになった。
知人の紹介で御代田町に古い一軒家を借りることができ、小諸の市営住宅から引越した。
少しは安定した収入が必要と考え、始めた仕事は日中(だいたい夕方からの)銀行清掃と月10回ほどのホテルの宿直のバイトだった。
その頃障害者グループホームの仕事も紹介されて始めたと思う。
そんなダブルあるいはトリプルワークをしながら農作業も続けていた。
 
グループホームでは週数回いわゆる世話人として食事の世話、朝夕の作業所への送迎などが仕事だった。そこで知らない土地で再び障害者との関わりが始まる。
が、ここも数年して運営者との方針の相違から辞めることになる。
2000年の少し前くらいから病院の午前中の日常清掃をパートで始める。そして午後(夕方)からの銀行の定期清掃と月末の新聞集金の仕事の3つの仕事を兼ねてやっていた。
まともな職(とは何かも疑問だが)にも就かず、のんきに年数を過ごしていた感もあるが、そのころはまだ焦りもしないで2人暮しを続けていた。
 
そんな中、「夏のワークキャンプ」も続いていた。東京の障害児通園施設で働いていた頃関わった子供たちとサポートしてくれるスタッフとで、だいたい8月のお盆前後3泊4日か4泊5日で行った。
畑でジャガイモやトウモロコシの収穫、山登りをしたり、日帰り温泉に行ったり、夕方からはバーベキューしながら食べて飲んでで、自分にとっても1年のうちで一番楽しい日々だった。
 
たしか2000年、夕方からの大雨で朝明るくなってみたらワークキャンプで宿泊していた山荘の前の道路の舗装が決壊していた。
上にある排水口が落ち葉などで塞がって水の流れを止めたのが原因だった。
斜面の道路に停めてあった車数台を動かすことが出来ずに途方に暮れていた。
丁度別荘に来ていた自動車会社勤務の方の助言で「タイヤの空気を抜いて地面との接地面を増や」して、決壊している道路を排水口がある地点まで登り、あとはう回路を通って抜け出ることができた。キャンプに参加してくれた方々には帰る日程を一日延期してもらうことになった。
これ以降、この別荘地(山荘)には寄り付き難くなった。
 
夏のワークキャンプはその後、2002年に設立した法人の事業が忙しくなり、体力的にもそろそろ限界か、という2005年まで続けた。
場所は変更し、御代田の借家(まだ荷物も少なかったからか25人くらい泊まった。)、また社協から補助金を得て2回ほどは小さな宿を貸し切って開催した。
 
そして1995年以降は、みんな帰ったあとにも自分ともう1人(同居人)が残り、静かに反省会兼打上げ会を行った。
 
 

第6章 山麓時代① 山麓行

浅間山南麓の小諸、御代田で暮らした。
「障害児通園施設」で4年10か月勤めた後だ。
何故この地に行ったのかから書き始めると長くまとまりなくなってしまうのでここではやめておく。
 
1988年3月から2022年3月まで34年ほど。(1995年からは御代田町)
今はこの時代を静かに振り返ってみよう。
 
始め、味噌作りをしている作業場兼住居に住み込んだ。ここに来ることが目的だった。が、そこは一年で離れた。
いわゆる「障害者」も暮らしている。隣室とはベニヤ一枚で隔てられている。
「意欲」を持って来たものの、それと等しく反比例して苦しくなっていった。結局は受動的に「期待」だけした結果だったのだろう・・・と今は考える。
 
金銭的にもその頃はその日暮しだった。賃金は毎月5万円。身体的に動けるということがしばらくはそれを可能にした。
そのあとの数年は苦しい中での「前進」だったのだろうか。農業、別荘地の整備、土方などの外仕事で日当を得た。
 
その頃知人から資金を募って軽井沢のはずれの別荘地に「山荘」を購入した。(これは今に至り負の遺産となっている。)ともかく後戻り出来ない状況の中でなかなか前進しない年月を過ごしていった。
もっともその頃は計画的な見通しを持つということが不得手だった。そして余裕もなかった。それはそのあとも基本変わらずに続いた傾向だったように思う。
そして、「山荘」を拠点にして知人、友人を募り夏に農業を体験する「ワークキャンプ」を始めた。1990年代の初めの頃だった。