放浪縄文人の日誌

30歳過ぎて山麓に30年以上暮し、その後1年東京世田谷で暮し、2023年3月末から本州の北の方に行った老人の折々の日誌

今年最後の南下 11/28~12/4

軽自動車に草刈り機、脚立、工具などを積み込み、11月28日朝5時出発、戻ってきたのは予定と違わず12月4日夕方4時だった。
総走行キロは約1650キロ、そのうち白石インターから高碕インターまでの300キロほどは高速道を走ったが、あとはひたすら一般道を走る。
 
今回は山麓の売れ残っている古家の庭の草刈りが主目的で、気持ちが憂鬱な旅だった。
その作業自体は一時間ほどで終わったが、来年また草が生い茂る頃に行かなければならないのか。
もうあまり行きたくない。が、そういう場所ほど行くことになるのかもしれない。
 
密度や暮しぶりは(たぶん)それぞれ、あるいはあまり違うことなくかもしれないが、どこにも人が暮らしていると実感する。
 
長い距離を走るため早朝暗い内に出発し、午後はチェックイン時間に合わせて早めに宿に到着するようにする。
 
自分のような人間はある程度場所に紐付けられて生活しているので、今回のような場所移動は1日に数百キロに渡る町から町を眺め続けるわけで、気持ちに与える影響も大きい。
 
依然暮らしていた町も変わりなく、しかし少しづつ変わっていっているのだろうか。
 
帰りは世田谷を発ち、一般道を走り2泊3日で野辺地まで。1日目100キロ、2日目300キロ、3日目300キロの実走だった。「流人道中記」(浅田次郎作)で描かれた江戸末期から比べると驚くほどの場所移動だ。
 
 
 

原発見学会 11/16、17

町が主催する原発見学会に参加した。
1日目。朝7時10分野辺地駅集合。早めに行ったつもりだが皆さんすでに集まっている。
青い森鉄道、新幹線を乗り継いで10時30分仙台駅到着。ここから貸切りの大型バスに乗る。
町の職員2名を含めて総勢15名ほどのほぼ老男女の団体旅行だ。町職員がスムーズに引率してくれる。
仙台駅前から乗車したバスは、高速道も使い1時間以上走る。昼前に女川の港近くの店に到着し、海鮮丼の昼食。そのあと女川原発PRセンター、原発敷地内バスで移動見学。宿泊先の仙台駅近くのビジネスホテルに到着したのは18時くらいだった。
夕飯は少し歩いたところにあったイオンで弁当、惣菜、本絞りを求める。(これだけ自費)
2日目は9時40分ホテルロビー集合。三居沢電気100年館見学。まだ稼働中の東北地方初の水力発電所とのことだ。青葉城会館に移動し昼食。そのあと仙台駅へ。
皆さんたくさんの土産を買い込んでいた。自分は食パンと菓子パンを購入。
新幹線、青い森鉄道を乗り継いで17時10分野辺地駅到着、解散となる。早々に車に向かう。
 
電力会社のおもてなし、サービスの質には感服した。
概要はPRセンター所属の感じのよい若い女性、また原発敷地内ではベテランの男性社員がわかりやすく説明してくれる。
 
一つ知れば、また次々とわからないことが増えてくるが、個人の手の及ばないところできわめて多くの人が役割を担って運用していることをあらためて知った。
 
女川原発では来年の再開、安全対策等に向けて広大な敷地内を大型トラックが動き回っていた。その中を団体客は大型バスで周遊した。
2011年の震災の時、女川は福島の原発より震源地から近かったが安全停止し、近隣住民の避難場所に開放したという。
 
原発はヒトの強みである組織的運営・管理の典型事例だろう。
自分のような非協調的人間も、身近なところにあるスイッチやコンセントで、その構成員としていつも繋げさせてもらっている。
 
 
 
 
 
 
 
 

第13章 烏山時代 2022年3月~2023年3月

町のこと。

2022年3月から2023年3月まで烏山(東京世田谷)で暮らした。
山麓を撤退して、認知症の母親のいる連れ合いの実家で3人暮らしだった。
20年あまり続けてきたNPO法人は2月に解散申請を出して、あとは順番に書類を出し続け、問題なく6月に解散登記完了となった。自分が責任持ってやっていた事業を辞めたことで、事件は時々起こるにしても大概平穏な日々を過ごせた。
 
都会には独特のちょっと驚くことがある。
街を歩けば、真横や真正面から人や自転車が向かってくる。年齢的に瞬時に左右に位置を移動出来なくなっているのでいつも神経を使う。時々接触寸前の危なさを味わう。
自転車の前と後ろに幼児を乗せてよくあのスピードで渋滞を掻い潜って走れるものだ。平和な社会の風景なのだろうかとも思ったりする。
 
それでも老若男女が犇めく千歳烏山駅界隈は埋没できる安心感がある。
都会暮しをしていた若い頃の感覚が埋め込まれているのだろう。
区民センター内の図書館には元気な老人たちが集う。その前の広場にはアルコール缶を持つ人やダンスの練習をする高校生、隅にある遊具で遊ぶ子どもたちなどたくさんの人たちが集う。駅の南北を隔てる「開かずの踏み切り」の開くのを待つ人、人、人。もう少し暮らしたかったと思える町だ。
もっとも今も数ヵ月に一度は烏山に終活に行っているが。
 
仕事のこと。
3月下旬から仕事を探し、結局馴れている清掃の仕事を京王線で2駅先の大きな病院に決めた。山麓の家の片付けもあるため週3回それも希望する月~水でよいというのが決め手になった。
始めてみると平日ほぼ30人くらいが働いているのか…。皆さん時間帯、曜日それぞれで働いている。7時から16時というのが主なようだが、午前だけ、午後だけ、それに出る曜日も人それぞれだ。そして70歳前後は労働者の中心だ。自分はまだ少し若い部類か?
2、3人20歳代の人がいたが、自分がいた数ヵ月で次々と辞めて行った。
シフトを組むのが大変だろうなと思う。
自分は9時~16時の勤務で午前3時間、午後3時間でシフトが組まれた。だいたい午前3時間で病棟1ヶ所、午後3時間でコンピューター棟プラス道路掃きというパターンから始まったが次第に担当できる箇所を増やされて行った。週3回それも都合で不定期に休むわけだからシフト編成上仕方ない訳だが、各病棟によってやり方が微妙に違うし、いわゆるカラーリング、ゾーニングの決まりがしっかりと形式的にあり、順守すれば実質作業に使える時間が限られている。ベットの下の除塵はしない、目視で汚れてない箇所は極力やらないを心掛けないと時間内には終わらない。 それでも馴れてくるとだいたいの時間予測が出来るので楽かもしれない。ベテランの方々は上手に時間を使って、丁度よい時間に引き上げてくる。
担当箇所が変わると時間予測が難しくなる。
定期清掃も時々シフトに入ってくる。ワックスは基本塗らないが、ベットその他備品を全て移動してバランスの悪いシャンピングポリシーでの作業は体力と神経を消耗する労働だ。
自分は基本8時10分には出勤して、着替え、タイムカード印字、シフト確認、資材準備、そしてその日のシフトが病棟だった場合は8時30分には病棟に到着するようにしていた。何しろ病棟によっては9時までにシャワー室の清掃を終わらせなくてはいけなかったから!
昼休みも事務室の一画で各自黙々と弁当食べ、そのあと10分くらい目をつぶってうつ伏せになるくらいだ。馴れてくるとトイレの大便器に座って休むことを覚えた。
だから書面上は1日6時間労働でも実態は7時間労働だった。
 
連れ合いの赴任先が次年度から青森県野辺地になり、また年明け風邪をひいてしまったので、1月半ばで辞めることにしたが、このような仕事スタイルを長く続けるのは自分には難しい。よい潮時ではあった。もっともどんな職場も自分には難しいのかもしれない。自分で始めたNPO法人の事業は勝手に辞める訳にいかず20年あまり続けることになったが。
 
家でのこと。
山麓に行かない日は夕飯作りが担当だった。
調理中、認知症の連れ合いの母親が元気な時は覗きにくる。火を使っていたりしていて危ないし何よりも調理の邪魔になる。そんな時は味見品を出すとそれに気持ちが行ってくれる。
冷蔵庫でも何でも開けて食べものその他を口に入れる。ドアを開けて夜中でも出掛けてしまう。一旦外に出たら帰っては来れない。何度か警察のお世話になった。
今ではなつかしく、楽しい思い出である。
3月末、北の町まで軽自動車でやっとたどり着いたが、そのまま病院に入院。3ヶ月後に静かに亡くなった。
 
仕事以外の時間のこと。
週3回の病院での仕事はきついとは言っても結局はその時間でのことだった。それが今までとは全く異なることだ。
だから家での夕飯作りを始めこの仕事以外のところがとても大事になった時代だった。
山麓へは毎月3、4日行っていたがそうでない日は図書館に通って今まであまり読まなかった小説、特に長編を読んだ。
カラマーゾフの兄弟」「戦争と平和」「晴子情歌」「石狩平野」など。
朗読サークルに参加したり、朗読を聞きに行ったり、日程が合えば駒沢大学の日曜坐禅会に行ったりした。
坐禅の流儀は曹洞宗でもそれぞれの寺で違う。自分は数年(といっても10年くらい)前から始めた小諸のお寺のやり方がやり易かった。始まる10~20分くらい前からでも行った時から各自壁面坐禅を始めてよいので坐禅することにより向き合えた。
駒沢坐禅会は開始時間までは通路側を向いての待機時間だ。馴れや慣習(それもわずかな期間の)は気持ちにそれなりに影響を与えるものだ。
 
2月くらいからは引越準備も忙しくなってきた。3月末の引越シーズンピークに引越さなければならず、日通の引越パックを世田谷から2パック、山麓から2パックで計画したが、世田谷からは予約が取れなかった。結局一部荷物を山麓に戻し、山麓から3パック送ることにした。あとはサンバーに3人+残りの空間が無いほどの荷物の積込計画をした。
また世田谷の家の庭に1坪弱のトタン小屋を作り、山麓から運んだすぐには捨てられない荷物を収納した。これも屋根の傾斜をどっちにするか最後まで悩んだ。出来て来ないと空間のイメージがわかないのはいつものことだ。
 
かくして、3月28日朝5時、スバルサンバーは烏山を出発した。
 
 
 
 
 

場所から振返る。 2023年11月8日

この世に生まれてから間もなく68年になる。

自分がこの世に生まれてからの暮らしてきた場所場所から、その時々の事柄を振り返って行こうと思う。。

直接には個々の人を通じて仕事やそのほか様々な事柄を経験した。(実際は事柄の体験を通じての人との出会いなのかもしれない。)場所と繋がって記憶にあるそうした事柄を振り返りたい。

 

場所の変遷は次のようになる。これによって記憶があるので、それなりにまとまりのある振返りが出来るかと思う。

正確な年月は定かでなくなっている。前後の関係くらいはわかるというところか。

 

①長岡時代。
1955年11月に新潟県長岡市で生まれた。(生まれた時の記憶はないがそうだろう。)4年くらいいたと思うがこの頃のことは覚えていない。
 
②小出時代。
小出町に1年くらい。これは当時父親が銀行員だったので転勤のための移転だろう。2階建ての一軒家の貸家に父母、自分と弟の4人そして2階には学生だったような男性がいたような記憶がある。風呂はなく隣家に入りに行っていたと思う。
大雨で道路が川になって小舟に乗った覚えがある。たしか個人の医院のようなところに行った。
家から道に出るところに幅一メートルくらいの小川があって、それを隔てた両側で近所のチビらでかなり本気の雪合戦をした記憶もある。
 
③再び長岡時代。
長岡に移転して1年くらい幼稚園に通園した。(たぶんみどり幼稚園。)
長岡では、台所が共同だったアパート(小さかったからか廊下が広い遊び場だった。)、信濃川近くの一軒家(ここから川沿いの道を歩いて神田小学校に通った。)、愛宕神社近くの父親の実家に住んでいた記憶がある。
 
⑤前橋時代。
小学2年の1学期が終ったあと、群馬県前橋市に引っ越した。1963年だろう。まだ蒸気機関車が走っていて、碓氷トンネルを通過するとき窓を閉めた記憶がある。
最初住んだのは、前橋刑務所のすぐ南にあった平屋のアパートだった。そのあと
家を建てて引っ越した。場所は当時のダイハツの工場(今はケヤキウォーク)の東側、天川小学校の西、そこに小学5年から高校を卒業するまでいた。
前橋での10年ほどの期間は色んな記憶が残っている。自分の中でなんらかの生きる基準が作られた時代だろう。
 
⑥府中時代。
高校卒業後、大学進学のため東京に出てきて府中市の外れ(北山町)にあった大学の寮に3月から夏前くらいまでいた。
国立駅まで歩いて一時間以上かかったと思う。そこから法政大学のある飯田橋駅まで行った。
あまり授業には出ず、新宿区河田町にある東京女子医大で清掃の仕事をした。8月くらいには他大学受験のため休学だか退学し仕事も辞めた。
 
⑦馬込(大田区)時代。
五反田駅から都営地下鉄西馬込駅下車、歩いて20分くらいの四畳半、トイレ、台所(洗い場)共同の汚い部屋に引っ越す。そこに再受験の翌3月くらいまで10か月くらい住んだ。
 
新小岩江戸川区)時代。
新小岩駅から歩いて10分くらいの中川の近くのアパートに。(1階が大家で雑貨屋だった。)
再受験で希望の大学に受からず、法政大学社会学部に復学。3年から4年になる時1年留年して5年で卒業。(1980年)そのあと1年会社勤めをしたので6年ほど住んだことになる。
 
⑨然別(北海道)時代。
1981年3月、会社を辞め、その後五反田の製缶工場でしばらく働いた後、4月末くらいから10月中旬くらいまで北海道然別湖畔のホテルで働く。専門学校入学のための資金稼ぎと、気持ちのオーバ-ホ-ルのためだった。
 
⑩田無時代。 
東京に再び戻り、専門学校入学のための受験勉強をする。学校のある所沢に近いという理由で西武新宿線田無駅近くのアパートに住む。
 
国分寺時代。
試験に落ち再受験を目指していた頃、バイト先で見つけて始めた障害児を対象としたボランティアが縁で、小金井市にあった障害児通園施設で働き始める。4年と10か月いた。それに伴い、職場に近い国分寺に引っ越す。
32才の年度末(1988年3月)で辞めるまでここで暮らす。
 
⑫小諸時代。
1988年4月から1995年
3つの住居に移り住む。
 
⑬御代田時代。
1995年から2022年3月
今の連合いが東京世田谷から来るのに伴い、借りてた畑のある御代田町(塩野)に知人から一軒家を紹介してもらって引越す。後半(2015年以降)は、グループホームを始める予定(その後中止する。)で購入した中古住宅に引越す。
 
⑭烏山(世田谷区)時代。
2022年4月から2023年3月
連合いの実家で暮らす。
 
⑮野辺地(青森県)時代。
2023年3月末から。
連合いの赴任先。
 
 
 
 
 
 
 
 

青森から南下 10月末

10月22日(日)昼頃、世田谷に到着した。

早く着いたものの体がだるく結局寝て、飲んで食べて過ごしてしまう。
前日佐久でのネットカフェ仮眠が体に堪える。
 
20日に朝4時に野辺地を発って、15時くらいに宮城県大河原着。
青森から岩手、宮城と南下すると途中から金木犀の匂いが車中にも入ってくる。
翌日は5時発で、15時頃浅間南麓の中古住宅(通称)第7さん着。(矢板から前橋までは高速道路を使用)
第7さんは庭が草だらけ。木も生え始めている。売却出来ずにいるので今後の課題だ。脚立など積んで撤退。日帰り温泉に行って、ネットカフェで仮眠。翌日5時発で世田谷へという行程。朝は車のフロントガラスは凍っていた。
 
来春草刈りと考えたが、できたら早いほうがよいだろう。道が凍らない年内で予定を立てよう。
帰路も練馬から矢板まで高速道路を使う。後は宮城県古川まで一般道。翌日も一般道で野辺地まで。
今回は国道近くのビジネスホテルに泊まった。大河原、古川とも満足のいく宿だった。

9月の末

・・・9月に入って1週間が過ぎた。風がだいぶ冷たくなってきた。と、ブログを書き出そうと思っているうちに20日も過ぎ、あと数日で10月という頃になった。

暦があるからそのように頭を整理して考えられるのだろう。
日中日差しはまだ強いが、空気はだいぶ冷たくなった。雨もよく降る。
少しずつ寒くなっていく。
 
毎日あまりダラダラしないでする事をしていこうと思う。
このブログもその一つだ。
読書、朗読、週報入力、写経(みたいなこと)、身の回りのことでやれること(草かきなど)。
 
特に目的、目標は立てないで日々やれることをやっていくというところだろうか。
 
 

8月25日(金) 再び北へ

10時20分東京駅発の新幹線に乗って北へ。
昨夜は池袋にて朗読サークルに参加、そのあと二次会で遅くまで飲む。
今回読んだ作品は北大路魯山人の「納豆の茶漬け」補足付きだった。
 
新幹線車内は老若男女・多国籍、一人・家族連れ、仕事・行楽?と様々な様相。
 
ともかく自分はしばらくは野辺地町で暮らしていくのだろう…と思う。