放浪縄文人の日誌

30歳過ぎて山麓に30年以上暮し、その後1年東京世田谷で暮し、2023年3月末から本州の北の方に行った老人の折々の日誌

第3章 然別時代 1981年

25歳で大学をなんとか卒業した。
ともかく就職しなければと、年が明け2月頃、水道橋駅近くの旭屋書店の入っているビルの上の方にあった就職斡旋センターのようなところで仕事を探した。
そして1年間会社員をした。
しかしやはり自分には会社員は向かないと思い、早々に辞めることに決めた。
ではこれからの進路をどうするか?
非社交的人間故か・・・、「人に関わる」仕事という方向が一つ。その頃読んだ本で、言葉での表現に障害のある人のリハビリをする「言語療法士」という職業があって、当時は所沢にある専門学校で学んでその仕事に就くことができることを知った。
たまたま会社が終わった後、大学の図書館でサークルの先輩に会い、その学校に通っている人を紹介してもらって直接話を聞いたりもした。
 
漠然と計画を立てた。試験勉強をしないとならない、それにお金も貯めなければならない。
それよりも、6、7年の東京暮らしを一時中断して気持ちをリセットさせたかった。
 
会社は1980年4月から1981年3月までの1年で辞めた。炭素製品の輸出書類を作成するのがその頃の仕事だったが、あまり仕事も覚えられなかった。
 
会社を辞めたあと、少しだけ五反田の製缶工場で働いた。
そして4月末に羽田空港から帯広空港へ、そのあとバスで帯広駅経由で然別湖に向かった。湖畔に建つ温泉旅館の客室係が仕事だった。
 
そのあと自分のような季節アルバイトが10人くらい次から次にやってきた。
 
行った日、湖は一面凍っていた。
数日して朝眺めると湖面が静かに波打っていた。旅館の対岸にそびえる山の影が湖に映ると唇のかたちになる。天望山という名前だが、通称「くちびる山」と呼ばれているとのことだ。その後仕事が休みの時に登った。湖畔を回って頂上まで数時間で行けたように記憶している。
旅館での主な仕事は、客室の布団敷きと片付け。客が食事で部屋から出るとポケベルで連絡が来る仕組みだった。他にも、館内放送、スナック、土産屋などに季節アルバイトは振り分けられた。
近くの町から来た人も調理場、フロント、レストランなどで働いていた。
だいたい4月から半年働いて、あとは失業保険を受給して暮らしているような話だった。
仕事に慣れて来ると、夜仕事が終わったあと職場仲間数人で隣のホテルの居酒屋に飲み食いに行ったり、体力をもて余して湖畔を数キロ走ったりしていた。
本州からの出面取り(出稼ぎ)も近くの町から来ている人たちも同年代の者が多くいて、気安い雰囲気で過ごせたように思う。
週1回程度の休日には帯広の町に飲み食いに出たり、湖近くを歩いたりした。唯一の遠出は、電車とバスを乗り継いで襟裳岬に行ったことだ。
 
1981年は国際障害者年とかで、北海道新聞に全国のいくつかの活動が紹介されていた。その中に新得町の共働学舎があって、その後何度か泊まりがけで行った。
ここでのわずかな体験はこれからの歩みに少し影響を与えたかもしれない。
 
少しづつ知ることになるが、近隣から働きに来ている若い男女はほぼペアが成立している。本州から来た出面取りも伴侶が出来てこの地に住み着いたり、本州に戻ってから結婚したペアもいた。
 
自分は1年勤めた会社にいた片想いの女性が忘れられず、時々手紙を書いたりしていた。結局その後しっかり振られることになる。
 
ホテルの送迎バスの運転手さんの子がアルバイトでたまに来る。彼女は新得高校の3年生で初々しいかわいさのある子だった。一度だけ新得駅前の喫茶店で食事をした。
 
10月も半ば、仕事を終了して帰るバスに、旅館で働いている地元の女性が予期せず乗ってきた。彼女は気安く冗談の言える幼い感じのする女性で、昨夜の送別会になんで来なかったのか少し憤慨?していたのだが…。
一緒に十勝ワイン工場に行った。そして帯広駅で別れた。
それらはせいぜい数時間のシーンだけで、すぐ幕が降りた事柄だった。
そして温かい思い出になっている。
東京での生活とは異なる空気の中で、人たちと関わる時間があった。
  
再び東京に戻り、学校のある所沢から近い西武新宿線田無駅近くにアパートを借りて、アルバイトしながら試験勉強するという生活に入った。